愛媛県藩主に封じられたとき、その重臣として宇和島(愛媛県)に随行した.
伝説と史実のはざま
"Netaro Legend Research Society"
何故か民話の域を出ない寝太郎
骨子は280年間も揺らいでいないのである。
寝太郎なる人物を突き詰めていけば、防長風土注進案(1841)の内容が最も信ぴょう性が
あるとされている。しかしこれらは長州藩の全17宰判、全町村の主だった人々が記録したもので
原則として1町村につき1冊、計395冊に集約されたものの、あるていどの制約があり
名もなき農民の口出しできるものではなかった。
そうした状況で実際に埋もれた歴史の多くは日の目を見ずに、うやむやにされたと思われる。
実は、注進案よりも100年前の、寛保2年(1742)に、庄屋の長谷川彦右衛門が千町が原を
開拓した人物を長州藩に報告しているのだ。ただ寝太郎ではなく禰太郎となっているが、
他の資料でも禰太郎の名はでてくるし、平賀清恒は、寝太郎と呼ばれていたのではなく、
禰太郎という名前を使っていたのであろうか、いずれにしても内容的には現在のものと、
あまり変わっていない。こう考えると
防長風土注進案よりも100年前に、この話の原型ができていたことになる。
もっと、その人物像に迫るなら枝村家屏風の文政初年(1818)の祠 に見る
雲華院大含の書なども信ぴょう性が高い。
また防長地下上申絵図にみる祠、享保13年(1728)或いは千町や荒神社の存在、
さらに貞享3年(1686)の[享保新田検地条目」による飛躍的な田畑の開墾実績など、
その存在は疑う余地もない。
これらを推測すると「防長風土注進案」よりも、さらに200年近くまで遡ることが
できるのではないだろうか、
歴史を学ぶには単に事実の証明よりも、その事実をどのように捉えるか、
また学びての解釈により、その経験、立場、価値観によって大きく変わって
くるものだが、さらに慶安2年(1649)の長門国大道並難道舟路ノ帳にも
寝太郎荒神の森が明記されていることから、
おそらく寝太郎没後30年後には、すでに農民に高い評価を受け、
祠に祀られていたことが伺えるのである。
また寝太郎が誰であったかよりも、誰が千町ヶ原を開拓したのかと云うこと
つまり寝太郎とは時代的背景により、実名に触れることの出来なかった人物を
意味し、人々が考えぬいた没後の愛称であろう。
そもそも「防長風土注進案」は長州藩が実態調査を進め集大成したものである。
虚実の報告をすれば、どんな厳罰があったやも知れない。その中で寝太郎が
記載されていることは名を明かせない実在の人物がいたということに他ならない。
このため至ってあやふやに祢太郎、或いは禰太郎と記載する文書がでてくるのだ。
もちろん注進案の報告は過去を遡るのであるからこの業績が注進案と同時に
始まったものではなく数年、数十年も遡った前の業績なのである。
これらのことを前提に深く掘り下げないと何も始まらない。
また資料とはどのみち材料であり、それをどう使って事実のイメージを作るかである。
しかし、いくら私が追求してみても、所詮は素人の研究にすぎない。
そう言った先入観がもたれて、みなさんに理解してもらうことは無理であろう。
だが山口大学にも「山口学研究センター」なるものが存在し、
そこで行われたプロジェクトの成果などをまとめた「山口学研究」というタイトルの
冊子が刊行されている。その中でも、寝太郎に関する記事があり、
厚狭川の固定堰「寝太郎堰」や「寝太郎用水」、千町ヶ原開発の功績譚として、
寝太郎が着実に地域に根付いていること、更にはこの伝説が江戸中期ころには
完全に定着していたことから、今、始まったことではなく、
現実味を含んでおり、非常に興味深いことだと書かれている。
そこで今から260年ほど前に記録された寝太郎伝書は決して作り話などではなく
史実に基づいた記録だと思われる。
なお私なりに多少は尾ひれをつけて脚色してるかも知れないが
骨子そのものは間違っていないはずだと思っている。
それに近年、創作されたものだと言われているが、
円応寺にある寝太郎木彫像については当時の「閥閲録」享保11年(1726)や「村限明細絵図」等の由来書で
延宝8年(1680年)頃の制作であり、当時はまだ白木のままで、最初に彩色されたのは
享保5年(1720年)頃とみられ、更に雨漏りなどの影響か、寛延4年(1751)に2度目の
彩色が行われている。台座裏にも再彩色とある。。なお先の著書「寝太郎伝説ゆかりの地」
37頁でも述べたとおり、
古文書の表装仕立ての特徴は享保10年(1725)頃と見ているのでその当時に模写された内容に
改ざんがあったとすればどうにもならないが、内容的にみても改ざんする意味はないはずである。
ちなみに木像の作者は寝太郎自身ではないかと某有力者が述べていたが、
私はそうではないと思う。
その理由は 著書「寝太郎伝説ゆかりの地」(17頁)でも述べている。
それに作者は円応寺の4代海呑和尚だとする資料を目にしたことがある。
確か昭和の終わり頃、曹洞宗に関する機関紙だった気がする。
その時、コピーをとっておいたのだが、どこに仕舞ったのか思い出せない。
近年、良く言われるのが、昭和28年に萩出身の評論家・岡不可止(県庁職員)が
創作して朝日新聞の民話めぐりに載せたからだ。との説である
しかし、すでに昭和4年に河東(今の加藤)に住んでいた道城譲が、防長新聞に載せて
いた記事と良く似ている。ほぼ同じである。
それに同じ昭和4年に、寝太郎由来書が権現堂に寄贈されている。書いたのは
陸軍通信学校長の境孫四郎であり、道城譲の文を引用して書いたと言われる。
さらに昭和16年・日本放送協会の電波で中村卯一が、図書館で読んだという
寝太郎伝説を紹介しておりこれとも同じ内容である、いずれにしても、岡不可止より、
、
10年も20年も前に、同じことを述べている人物はたくさんいるのだ。
いや、それどころではない、遥か昔になるが、寛保2年に村役人の長谷川彦右衛門が
長州藩に提出した調査報告書とも良く似ている。つまり寝太郎の原型は、
ほぼ280年近く変わっていないことになる。
平成3年(1991年)2月16日
寝太郎伝説研究会会長 田尾 進
全国のみなさま「3年寝太郎」で有名な厚狭の里へお越しください。
※お問合せにつきましては必ずメールでお願いします。電話での対応はご遠慮ください。
県外からの団体様につきまして予約での、案内ガイドを行っておりましたが、
現在は一旦中断しています。ゆかりの地
疏水百選寝太郎堰(柳瀬)、寝太郎旧堰付近(沓)、寝太郎用水路(鴨庄)、寝太郎権現堂(円応寺)
、円応寺(鴨庄)、
駅前寝太郎像、寝太郎神社(桜町)、塚之原城跡地(緑ケ原団地周辺)、清安寺(不動寺原)
、千石松桟橋付近、
縄田家わらじ蔵(鴨庄)、惣社八幡宮(野中)、平賀清恒木彫像(惣社八幡宮)
、水車小屋跡地(貞源寺付近)
梶浦港跡地付近、厳島神社(梶浦)など
寝太郎大使©の募集(応募は最終ページをご覧下さい)(寝太郎検定委員)
平賀清恒研究会© 平成10年6月30日(第116649号)
Netaro Legend Research Societ
Chairman, Susumu Tao
寝太郎木彫像(円応寺)
平賀清恒木彫像(惣社八幡宮)

寝太郎人形は当会の名誉会員だった創作民芸作家・井口方夫さん作
Kamishibai
紙芝居上演は、プロジェクターで84インチのスクリーンに写し出します.
@寝太郎落ち武者伝説、 (脚本、田尾進・絵画。竹野宏)
A絵で見る寝太郎伝記、(文、田尾進 ・ 絵、竹野宏)

.
あらすじ(制作著作)
厚狭の寝太郎/平賀清恒 原作・田尾進
・
佐渡の金山とは?
この佐渡金山とは相川金山ではなく、佐渡最古と言われる、
西三川砂金山のことであり、
尾張国から来た中川長八(のち但馬屋の主)という人物が天文年間に探り当て
密かに採取しており、莫大な財を成したという。
のち、幕府の監視下に置かれるようになって
長八は追放されてしまいます。
(※西三川砂金山は平安時代から始まり明治5年(1872)閉山とある)・
publication /
出版物・資料の紹介
絵でみる寝太郎伝記、絵・竹野宏 文・田尾進

.

.

.
資料及び、マンガ「厚狭の寝太郎」作者/田尾進、漫画/広中健次、
平成13年(2001)6月より〜平成15年(2003)5月まで、広中さんの協力で
2年間にわたって中国新聞に連載されました。
それをコピーして前編、後編にまとめたものです。
現在、1冊にまとめた本もあります。
各図書館等にも寄贈しています。

.
系譜の紹介 (Introduction to the lineage)
寝太郎伝書所蔵者、縄田明人氏(中学校長や、高校/短大講師を歴任)

.
防長風土注進案より・
山川ノ野田ト言ヘル所ニハ、今ニ牡蠣ノ附キタル石遺レリ、
然ルニ年ヲ経テ何時ト無ク埋マリ、後世ニ当タッテ、八中々汐ノ
通ヘル事モ無ク、広々タル空キ地トナリケルヲ、中古大内家、四箇国ノ
武将タリシ時ニ当タッテ賎ノ男ニ、一人ノ異翁有リ、世渡リノ生業ヲ
事トセズ、
常ニ寝ル事ヲ要トシ万ノ工夫スル事、天晴ノ生質タリ、爰ニ於ゐテ世人、
ソノ情名ヲ言ハズ、寝太郎、寝太郎ト呼ビシト也・・・以下略
寝太郎伝書を所蔵する縄田明人氏、
縄田家とは、
寝太郎伝書(平賀系譜)を所蔵する縄田家も、やはり清和源氏の流れを汲む
公家一族からでた大内惟信の末裔が、竹内信治と名乗り,さらに系譜を辿ると
竹内から縄田へと分れた人物がいる。それが江戸時代の中期以降に、厚狭に
移り住んだということは、 山口文書館の資料でも部分的ながら確認できた。
しかし、詳しい年代まではわからない。
ただ、系譜としては 初代が縄田新左衛門となっている。長男、源次が跡目を
継いでいるが「寝太郎伝書」を託されたのは、何故か2代で別家となった次男の
又七(算用方、庄屋)である。
3代、縄田庄右衛門(庄屋)、4代、甚兵衛であるようだ。このことが清安寺(厚狭不動寺原)
にある格式の高い墓石でも証明されている。なお、5代目はちょっと、不明だが、或いは6代目と
思っている縄田計恵氏が、5代目かも知れないので、一応、計恵氏を5代目として数えておく。
この方も 知識人であったし、 6代目であろう 現在の当主、明人氏に当てはめても、やはり
名の知れた教育者である。
縄田家の口伝では3代の庄右衛門がボロボロになった古文書の維持ができなくなり
止む無く模写して残したというのだ。それが嘉永年間(1848-1853)だと推測されているが
この模写が信ぴょうを問われる原因であった、然るに本体の巻物は、そのまま仕様したと
みられ、微妙な小細工の跡も伺える。また信ぴょう性が問われるその内容も確かに1部、
不審な部分があり、この部分を入れ替えると辻褄があうと思える部分がある
これは意図的な改ざんか、或いは単なる誤記なのかはわからないが。改ざんする
メリットはないはずである、これを修正すれば、年代の辻褄があうのだが同時に私の
著書の内容も、何カ所か訂正しなければならなくなる。
まだまだナゾが多いのも事実であるが、いずれにしても、当時の状況下でこれほど詳しい
内容を知りえて書き残せることはできないはずである。なお近年になって初めて究明された
部分もあるし、(埋もれていたのであろうが)これが偽造なら、今から200年も前に
そのような情報を知りえるはずはないと思うのである。
いずれにしても、系譜を遡っていくと平賀盛義から始まった本流が河内源氏の武将、
平賀義信への系譜となり、あるものは鎌倉幕府御家人の大内惟義への系譜へ
またあるものは竹内惟時への系譜にへと分れ、空白を残しながらも、
やがて竹内信治から縄田家への系譜へと
広がっていったようだ。
一方、竹内姓の本流を継いだ竹内為脩の長男は、竹内姓を守り確かな系譜を残している。
竹内長治のあと竹内虎之助、竹内弥藤次、竹内庄右衛門と続いて、明治時代を迎えるころ、
竹内綱(1840-1922)に5人の子、明太郎、欽次郎、虎治、直馬、茂がいたが五男の茂は、
父の親友であった実業家・吉田建三の養子になり、なんとそこで、政治家を志し、やがて
吉田茂(首相)という輝かしい系譜を残した。

武藤家文書
なお平賀城主15代当主(清和源氏より第21代)平賀貞義の家臣、相木仁兵衛の娘を
配下の武藤実永が娶ったことで、その武藤文書にも平賀家に関する詳細な記載がある。
なお相木仁兵衛は、岩村田城主13代大井貞隆に使えていた相木市兵衛の身内でもあった。
さらに驚くことは大井貞隆の妹が、平賀清恒(寝太郎)の母である。さらに付け加えると
平賀城主16代平賀成頼入道源心(玄信)の姉が、岩尾城主11代大井行真に嫁いでいる。
つまり清恒にとって、伯母にあたるわけだ。伯母の子に行頼がおり、天文5年(1536)
武田軍との戦いでは平賀源心に加勢して、ともに海ノ口出城で戦った。
歴史家山崎先生の研究では大井行頼は永正6年(1509)に生れているから、このとき27才であった。
平賀城10傑と言われる有能な武将
上原伊賀守・小林右近・上原筑前守・内堀源太・尾崎三郎左衛門重誉・
中川和泉守・長谷川大和守・
武藤家文書曽根隼人正・武藤備中守義政・依田能登守良存
寝太郎記念館/平賀清恒記念館
これらは拙宅の離れにある書斎(24u)であり、一般公開の建物ではなく、
寝太郎伝説研究会の会員の情報センターです。
平成9年(1997)寝太郎記念館©として登録し、広く情報発信してるものです。
長年の研究成果は寝太郎落ち武者伝説として発表しました。
平賀清恒額像(高さ30p、
横幅35p、厚み4p、重さ1.9kg)
寝太郎に関連した資料100数点は、厚狭郵便局でも数か月間、展示したことがあります。

.
寝太郎の弟。平賀季恒(国長)秘伝
平賀成頼入道源心ノ次男ハ、平賀季恒也、天文三年(1534)頃ニ生ル
同五年(1536)ノ海ノ口出城崩壊ノ時ハ、若干三歳ニシテ、家臣ニ背負ワレ脱出、
ノチ奥州ノ、白石ニ居住シテ白石季恒ト名乗リ伊達家ニ仕ヘル、
ソノ後、サラニ白石国長ト改名ス、ソノ子季光モ、ノチニ国光ト称ス、
ソコデ季恒(国長)ヨリノ系図デアルガ、二代季光(国光)、三代ハ国家、
四代国行、五代良盛、六代良寛、七代良房、ソシテ八代ニハ、江戸ノ天才発明家ノ
平賀源内(国倫)ニ至ル、ナホ源内二ハ、子供ガイナイ為、妹、里与ニ岡田磯五郎ヲ迎ェテ、
平賀家ノ跡目ヲ継ガス 、磯五郎ハノチニ、権太夫ト改名、里与達ニハ,
明和八年(1771)二、一人娘ノ直ガ生マレタ、コノ直ハ、美禰ト改名シ、
天保八年(1837)二、上野家ノ晴清(金太夫)ニ嫁グ、
此レ二ヨリ平賀家直系ハ絶エタト思ワレタガ、美禰達ハ
三男四女ニ恵マレタノデ、長男弥八郎(元継)ガ庄屋ヲ継イデイタガ
、・・・・・(以下略)
ちなみに源内は安永8年(1779)に52才で死んだことになっているが
実は文化8年(1811)の時点で、密かに生きていたという説があり
鵜戸大權現の「伝承系図」に載っている。また江戸考証家として
有名な三田村鳶魚も源内について詳しく説明した資料がある。
@

A

B

C
〜 史実と伝説をめぐる行き違い 〜
私は寝太郎を完全に史実として捉えているわけではない。
しかし深く追求するためには、史実であって欲しいと
密かな拠り所を求めていることも確かです。
従って素人ゆえ、偏りが生じているかも知れない。
逆に、どうせ伝説なのだから、全く意味がないと
切り捨てれば、その伝説もどんどん風化して
全く価値のないものになっていく、
たとえ誰かが創作したことであっても、一体何のために
そこには当時の人々の密かな願いがあってのことではないか
史実か伝説か、これが正しいのか、誤っているのか、このまま
放置しておけば、先人の思いも消えさってしまう。
史実か伝説かと議論するだけでも意義のあることだと思う、
そこには実際に確かな部分と、整えられた部分が混在しているはずである
その混在の部分に意味があると思われる。まずは混在部分を突き止めて
これを追求すれば、先人の思いがどう秘められているのかに
気がつくはずである。真実はどうであれ、素人の私が調べただけでも
下記に述べる年譜「寝太郎に関する裏付け資料」130項目が集まった。
これをどう評価されるかは皆さんに委ねるしかない。
「千石船の模型と曽我氏]
、
3年寝太郎が佐渡島小木港にワラジを運んだと推測する千石船であるが、
当時は300石積み(45トン)以上の和船をを総じて千石船と称していた。
おそらく寝太郎の船もこの程度ではなかったのか、
実は私の知人で梶に住む縄田家にも、船名の古いプレ―トが残っている。
20トン未満の漁船のものと思われるが、天神丸と書かれた40〜50センチの丸い看板である。
船体につけていたのかどうかはわかない。寝太郎の千石船というのは、
これよりは大きかったに違いない。
さて話変わって、千石船の模型を、忠実に再現した船大工がいる。
この模型は (全長160p、幅52p、マストまでの高さ92p、
甲板上の伝馬船全長25p)ほぼ畳1枚分です。
材質はヒノキとケヤキで、板のつなぎ合わせも本格的な造り。
ベテランの船大工/曽我秀雄氏であるが、 およそ1年がかりで製作された。
自宅にお伺いして、千石船の製作課程も説明して頂きましたが、
船体の各所に大小200個余りの銅版が、はめ込まれている本格的なものです。
新聞記事にもなりましたが。 希望価格100万円のところ、半額の50万円で
防府市の上村家が購入されました。(平成10年当時の話です)
私はすぐさま、寝太郎の千石船に結び付けて「梶浦の弁才丸」と命名し
著作登録に出願しました。
この弁才丸も、ただの千石船ではなくなって、結構、希少価値がでている
のではないかと思います。
上記に 完成した千石船の写真を載せていますが、畳1枚分の大きさがあります。
結構な重量があると思います。これ以外にも製作途中の写真が多々あります。
なお、山口きらら博の進水式で話題をよんだ遠石丸も曽我秀雄さんの作品であり
山口県立博物館に、展示されました。これは全長8メートルの木造船です。
権現と荒神・・ 「寝太郎翁」(平賀清恒)没後416年の記録・・
参考までに清恒の同僚2名・・・
●清恒の同僚・内藤隆信(勘解由)のち清覚・・戦国大名大内義隆の家臣で天文23年(1554)大寧寺から
落ち延びた同僚、内藤隆信は後、真宗本願寺10世証如の門を叩き入門。6年後には11世 顕如にも師事し、
永録8年(1565)清覚僧となって長門国厚狭へ下る。永禄9年(1566)・大庄屋で酒造業、枝村家3代孫衛門の
支援を得て厚狭市(貴船町)に本願寺の1宇堂を建立したが永録年間に死去、天正8年(1580)・2世清俊が
河東(現、加藤)に本堂を創建し祐念寺と改号。3世清純のあと4世清秀が中市(現/本町2区)に移築し
現在に至っている。・・・・・冊子[※寝太郎と内藤隆信(清覚僧)」参照
※なお枝村家は16代の喜一が明治29年(1896)に酒造業を廃業した。17代の枝村喜太は陸軍士官学校に
進み皇后警察につとめていたが、昭和20年に中途退職し、実業界でも活躍したが、昭和52年(1977)に
他界した。残されたご夫人は子どもたちと共に実家のある埼玉県入間市に移住された。枝村家は代々に
わたって地元に大きな功績を残した。
●清恒の同僚・矢野主水貞政は、母方の親族であり信濃国葛尾城(村上義清)の家臣であったが天文22年
(1553)葛尾城落城とともに落ち延び、佐渡に身を隠していたと思われるが、弘治元年(1555)長門国厚狭に
下る。のち吉田町の岡枝村に移り、永録5年(1565)諏訪大明神を分霊し初代宮司となる。天正5年(1578)没、
矢野主水頭の墓は堂ノ尾にあり、その墓の下に佐渡の砂金が埋めれているとの言い伝えから(宝を積んだ山)
宝積山と呼ばれていたが、のち宗漣寺と改め、明治39年(1906)に廃仏稀釈により吉田八幡
宮に合祀された。(山口県下関市大字吉田755)
※堂ノ尾は弥生時代の遺蹟跡でもある。
※その跡地より少し離れた場所に熊谷家(一の谷で有名な熊谷直実)の末裔、元直は慶長8年(1603)萩城
新築の際、普請奉行を仰せつかっていたが垣石の「五郎太事件」で悲運にも責任を負わされて自刃。
※長門熊谷氏居館跡は厚狭にある。
お家は一時、断絶であったが、孫、元貞は密かに逃れて、叔父であった長府藩主の毛利秀元を頼った。その後、秀元に
従い、大阪の陣で偉功をたてた偉業により、お家再興を許され、領地を与えられ吉田村に屋敷を構えた。(東行庵から少し
北へ行った場所)
(熊谷丹後守元貞)元和9年(1623)没、その末裔、熊谷直養も、この屋敷に住んでいたが後、廃藩采地返上に
より跡地となった。・・・冊子 [※寝太郎と矢野主水(貞政)] 参照
寝太郎に関する裏付け資料
弘治3年(1557)・寝太郎が沓村に粗朶堰を築造する
弘治3年(1557).寝太郎伝書
慶長15年(1610)・寝太郎翁死去か?
慶安2年(1649)・「長門国大道小道并灘道舟路之帳」に寝太郎荒神の森が明記。(萩藩が幕府へ提出し
たものと見られる。)
延宝8年(1680)・ 寝太郎木像は、この頃の製作と見られている。(海呑和尚の説を逆算)
元禄4年(1691)・長州藩寺社行政による「長門国諸社御根帳」に寝太郎ゆかりの千町や荒神社の文字がある。
元禄5年(1692)・末益のうち広瀬村のところに寝太郎荒神社が祀られる
享保5年(1720)・白木状態の寝太郎像を初めて彩色したとあり、(海呑和尚)
享保12年(1727)・円応寺の寺社由来に寝太郎権現、荒神の文字あり
享保13年(1728)・萩藩絵図方頭人の井上武兵衛に提出した「地下上申絵図」に寝太郎や千町ノ畔などが明記。
享保18年(1733)・厚狭毛利家5代の就久が干ばつと蝗害による大凶荒を理由に、沓村の寝太郎粗朶堰を取り壊し柳瀬に新たな石張溢流堰を築造した時期。大胆な推測で1733〜1740に至る期間)
以前、「寝太郎伝説ゆかりの地」で述べた時期より少し絞り込めたので就久50代半ばとみる。
寛保2年(1742)・萩藩の絵図方役人平田仁左衛門らが御国廻りの事前調査で訪れたとき庄屋の長谷川彦右衛門が寝太郎(禰太郎)の実績を報告している。
寛保2年(1742)・萩藩の絵師、有馬武春喜三太(喜惣太)35歳が枝村家の沈流亭に泊まり「御国廻御行程記」に禰太郎塚、千町ノ畔の絵図を描いた。
寛延3年(1750)・末益村広瀬地区に寝太郎塚が祀られる。以後、毎年9月27日を例祭日とした。
寛延3年(1750)・広瀬村の吉井左衛門ほか百姓中が沖田に寝太郎の石祠を建てた
寛延4年(1751)・寝太郎稲荷像を6月に再彩色(2度目)したと(台座裏)に記載あり
宝歴2年(1752)・寝太郎祠の周囲に松の木を並べて植えたとある
明和8年(1771)・土地台帳の評価により寝太郎神社に祈願成就の鳥居が奉納される。
天明元年(1781)・毛利の家臣、熊谷彦四郎知行所の諸山絵図に円応寺の寝太郎荒神堂が描かれている、
文化2年(1805)・狂言師濁山人(大田南畝)57歳が長崎奉行の仕事を終た帰途に厚狭千町ケ原の様子を記す(小春紀行)
文政元年(1818)・京都の書道家、雲華院大含(信慶)46歳が、頼山陽 38歳と供に枝村家の枕流亭に宿をとり屏風絵に寝太郎塚を描いた。
文政元年(1818)・博多の儒者、亀井昭陽が46歳のとき、枝村家の沈流亭に泊まり12勝の書を残し寝太郎塚を書いた。(頼山陽とも親交があると述べている。)
文政3年(1820)・貞源寺付近には材木商の黒石仲右衛門が利用した舟着き桟橋があり、ここに寝太郎ゆかりの大きな千石松があったという。
文政4年(1821)・内藤昌盈(号/静修)の「官暇漫吟」に寝太郎伝説が謡われている
文政6年 (1823)・島原藩主の松平忠候に随行した儒者、川北温山(30歳)が来泊「温山紀行」に寝太郎祠のことを記録している。
文政9年(1826)・京都の文人画家、浦上春琴(伯舜)が枝村家の沈流亭に1泊し、寝太郎に関する2首の詩文を残した
文政9年(1826)・儒者で詩人の広島福山藩の管茶山が訪れて寝太郎の所感を残している
天保元年(1830)・ 円応寺境内に薬師堂と荒神堂があり、権現は千町ケ原を開拓した寝太郎とあり、寺社由来
天保2年(1831)・百姓一揆の勃発、千町ケ原の南北でも対立し寝太郎木像の奪い合いで紛失したとされる。このとき大庄屋の枝村喜兵衛が米や物資を放出して取り鎮めたという。
天保13年(1842)・長州藩(藩主/毛利敬親)の命で国学者の近藤芳樹がまとめた「防長風土注進案」で寝太郎伝説が紹介されている。
文久2年(1862)・厚狭毛利家(当主毛利元美)の代官日記に大井手(寝太郎堰)が洪水で破損したので役人が出張検分し普請を進めるとあり。
慶応2年(1866)・庄屋の縄田甚兵衛が「御願申上候事」として地域一帯(千町ケ原)を紹介している。父は庄右衛門(庄屋)祖父は又七(勘定役・庄屋)、曽祖父は新座左衛門(庄屋)で代々にわたって地域の有力者である。
明治2年(1869)・厚狭川の千石松付近に林文吉(米屋)が所有する水車小屋があった。(貞源寺の下)
明治4年(1871)・厚狭川(寝太郎堰下流)の鴨橋工事に尽力した3名士(大地主の野村清兵衛、酒造業の枝村助之進、旅館業の重村政右ェ門。)
明治4年(1871)・ 廃藩置県に伴って行政区の改正で寝太郎の町名が浮上している。
明治14年(1881)・寝太郎神社が惣社八幡宮の合祀対称となるも住民の反対で存続される。そこで幡生氏が祭主を引き受けるにあたり例祭日は毎年2月25日(或いはこの日を中心)に変更された。
明治17年(1884)・戸長役場区域数村連合の管掌が更定され寝太郎の町名あり
明治32年(1898)・寝太郎餅(当時、ね太郎餅)が発売される千原玩雅堂(千原芳助)
明治34年(1901)・竹内紅蓮編(小哲学一名笑林)で寝太郎を題材にした小噺がある
明治41年(1908)・寝太郎旧堰を記念する碑が建立された
明治44年(1911)・渡邊融県知事が厚狭郡長槇俊治と共に千町ケ原を視察し大富豪野村家に泊まる。
大正12年(1923)・厚狭名所絵葉書(8枚組)が発行、その1枚に寝太郎神社が選ばれた。
大正15年(1926)・山口県に行啓された皇太子殿下のお手播松が寝太郎荒神堂の前に移植された。
昭和元年(1926)・出合村寝太郎町が2区に分割され東寝太郎、西寝太郎となる
昭和3年(1928)・円応寺の黙仙和尚が須弥棚で寝太郎木像を発見したことが朝日新聞に掲載される。(紛失より98年ぶり)
昭和3年(1928)・寝太郎権現堂が再建される(施工は地元の大工棟梁・池村粂次郎)
昭和3年(1928).吉村藤舟「郷土物語・第5輯]に3年寝太郎の話がある。
昭和3年(1828)・円応寺公園を整備し、寝太郎大典記念の碑を建てる。
昭和3年(1828).貞源寺(妙慶寺)付近の桟橋にあった千石松が枯れてしまったという
昭和4年(1929)・寝太郎木像を納める逗子を千原勘助が寄贈した。(製作は仏師の井上正平)
昭和4年(1929)・防長新聞社(道城社長)が厚狭町史10周年を記念して刊行?。というのだが、実は1年遅れてしまったと言うエピソードもあって微笑ましい。この中に寝太郎伝説を紹介しているが、千石船にわらじを積んで佐渡に行き、古いワラジと交換して財を成し、その資金で開拓をしたとの記事を載せていた。
昭和4年(1929)・権現堂に寝太郎由来記の扁額が奉納される。内容は道城氏の記事を引用したもので寄贈者は境孫四郎(当時は陸軍通信学校長)の自筆であり孫四郎は漢詩や書道にも秀でており、扁額には雅号「沓岳」の烙印もあった。孫四郎は現在の沓山田出身で旧姓山本であるが熊本県玉名郡和水町の富豪、境家の養子となっていた。今この境家住宅は近くの「肥後民家村」に移築され、重要文化財として保存されている。
昭和4年(1929)・柳田國男全集E筑摩書房で長州厚狭駅の寝太郎荒神の由来談が掲載された
昭和4年(1929)・柳田国男が大阪朝日新聞の山口版で寝太郎木像の写真を掲載していた。
昭和6年(1931).柳田国男が大阪朝日新聞の山口版に寝太郎荒神の由来を詳しく書いている
昭和8年(1933) ・俳人、種田山頭火(52歳)が厚狭町の小松屋(今の千町1区付近)に泊まったとあり、翌朝、埴生に向かう途中、寝太郎荒神の森で法衣に飛びつく蝉の句を詠んだとの説あり)。
昭和12年(1937)・厚狭町郷土研究会の会報で寝太郎の資料が紹介される
昭和14年(1939)・早魃回避の記念碑をたて寝太郎に感謝する。県下で稲作減収
昭和16年(1941)・日本放送協会防府放送局の電波で厚狭国民学校の中村卯一訓導が厚狭図書館で読んだという寝太郎伝説を紹介しており、佐渡金山の話をしていた。
昭和19年(1944).荒木精之が「肥後民話集」で3年寝太郎を紹介した
昭和24年(1949)・「郷土厚狭」で寝太郎古文書のあらすじが掲載される。
昭和24年(1949).木下順二(劇作家)が佐渡に伝わる話を素材にした三年寝太郎の戯曲がある
昭和25年(1950)・上水道ボーリング工事により沓地区で寝太郎の古堰跡が発見される
昭和25年(1950)・ 細迫兼光代議士が寝太郎さまの歌を作詞する(寝太郎小唄)
昭和28年(1953)・朝日新聞の民話めぐりで県の広報課長、岡不可止が寝太郎を創作紹介したと言われている。実は広報課長から総務部県民室長(課長級)に移動していた。43才の時である。しかし岡氏の話に限らず、同じような話は、すでに昭和4年(1929)加藤在住の道城譲が 防長新聞でも述べていたし、昭和16年(1941)にも中村卯一がラジオ放送で紹介している。
昭和31年(1956)・寝太郎権現奉賛会(河村芳明会長)が発足される
昭和33年(1958)・寝太郎祭りが始まる(町長は白石龍彦)
昭和34年(1959)・柳瀬地区の旧寝太郎堰が大洪水で流出する
昭和34年(1959). 読売新聞の「わたしたちの伝説」で寝太郎が紹介される
昭和34年(1959) . 大井手の改修を含む厚狭地区灌漑排水事業の開始
昭和35年(1960)・権現堂の雨漏れで境孫四郎寄贈の扁額が破損した(重村房雄文化協会長の口伝)
昭和36年(1961). 朝日新聞の「むかしむかし或るところで」寝太郎が紹介されている
昭和38年(1963)・寝太郎人形が発案される (創作民芸作家/井口方夫)
昭和38年(1963)・柳瀬地区で新寝太郎堰が完成し、用水環境が大きく改善される
昭和38年(1963)・郷土読本「山陽町」に寝太郎の紹介
昭和44年(1969).柳田国男集第八巻(新装版)治水拓土の功績で「厚狭の寝太郎」が紹介
昭和45年(1970)・[山陽史話]に、寝太郎物語の紹介
昭和46年(1971)・寝太郎銅像が厚狭駅前に建立される(金沢大学の米林勝二教授製作)
昭和47年(1972)・寝太郎音頭と、その振付けの「寝太郎踊り」が発表された。
昭和47年(1972)・寝太郎権現堂が再々建される。(寝太郎権現奉賛会)
昭和48年(1973)・東京の出版社「山口のむかし話」で寝太郎物語が紹介される、
昭和48年(1973)・昭和48年に初版発行された山口の昔話集に「厚狭の寝太郎」が掲載されている。
昭和49年(1974)・寝太郎堰用水利用の「厚狭寝太郎堰土地改良区」が完了、周辺農地の水利を守る維持管理が継続。
昭和49年(1974)・「山口県の歴史散歩」に寝太郎伝説が掲載されている
昭和50年(1975).大阪の共和教育映画社/代表八頭司亨(やとうじとおる)が16oフイルムで「日本昔ばなしシリーズ」を上映、三年寝太郎も含まれていた。
昭和51年(1976)・河川法に基づき、厚狭川の水利権が県の管理下におかれる
昭和53年(1978)・日本昔話事典(P13-P14) 厚狭の寝太郎あり
昭和54年(1979)・寝太郎ゆかりの円応寺が鉄筋コンクリートで再建される
昭和55年(1980).TBSテレビ放送がまんが「日本昔ばなし」で厚狭の寝太郎を紹介した。
昭和57年(1982)・柳井商工会頭が佐渡ヶ島でも寝太郎の話が定着していたと発表
昭和58年(1983)・寝太郎祭りに佐渡相川町から親善使節団7名を迎える。(和倉相川町長・神田山陽町長)
昭和58年(1983)・柳井雄三郎商工会頭はじめ14名が佐渡相川町の鉱山祭りに参加
昭和58年(1983)・東京の月刊誌[仏教の生活]に[寝太郎はなし] が掲載された
昭和59年(1984)・寝太郎荒神の鳥居が修復工事される。 (213年ぶり)
昭和59年(1984).日本伝説大系(第10巻)寝太郎の項
昭和59年(1984).山陽町史に寝太郎物語
昭和59年(1984)・佐渡相川町との友好の証として[寝太郎碑]を運び建立する。黒みかげ石に「寝太郎様を偲ぶ」と金文字入り。
昭和60年(1985)・佐渡親善交流の御一行16名を寝太郎祭りに迎える
昭和61年(1986).日本奇伝伝説大辞典に厚狭の寝太郎の項がある
平成元年(1989)・寝太郎太鼓保存会発足(会長/山本光男)
平成3年(1991)・寝太郎伝説研究会発足 (会長/田尾 進)
平成3年(1991)元新潟大学教授の臼井格博士が寝太郎木彫像の風格に感銘された記事・(禅の友)曹洞宗機関紙
平成4年(1992)・紙芝居「寝太郎落ち武者伝説」の上演祈願祭(権現堂で奉賛会28名の立ち合い)
平成5年(1993)・寝太郎落ち武者伝説(田尾進著)
平成6年(1994)・日本昔話事典 (P13ーP14) 寝太郎の項
平成6年(1994)・YAB山口朝日放送で「三年寝太郎は実在した?」でテレビ放映(出演)
平成6年(1994).寝太郎神社保存会発足(会長/幡生正隆)12名
平成6年(1994)・寝太郎荒神の森345年記念碑建立、
平成7年(1995)・寝太郎伝説ゆかりの地(田尾進著)
平成7年(1995)・続・ふるさと山陽(重村房雄著)に寝太郎伝説あり
平成8年(1996)・寝太郎と大内氏系譜(田尾進著)
平成8年 (1996)・絵で見る寝太郎伝記(文/田尾進・絵/竹野宏)
平成9年(1997)・寝太郎伝書のナゾ(田尾進著)
平成9年(1997)・平賀清恒記念館(主宰/田尾進)
平成10年(1998)・平賀清恒顕彰会発足(会長/幡生正隆)18名
平成10年(1998).船大工の曽我秀雄氏が千石船の模型を完成させた。畳1畳もあり船体の各所に大小200個余りの銅版が、はめ込まれている本格的なものです。
平成10年(1998)・寝太郎大使称号著作登録
平成12年(2000).日本説話伝説大事典(資料7) 寝太郎の項
平成13年(2001)〜平成15年(2003)まで中国新聞で[厚狭の寝太郎]連載(漫画家/広中健次)
平成14年(2002)・厚狭郵便局で寝太郎紙芝居(落ち武者伝説)の上演及び1ケ月のパネル展示会
平成14年(2002)・梶浦の厳島神社に寝太郎のジャンボ絵馬を奉納、梅の会平原廉清代表30名参加(佐渡ヶ島出港の地)
平成16年 (2004)・寝太郎伝説の深層構造、千葉大学/井上孝夫名誉教授
平成16年(2004)・武庫川女子大(兵庫県)高田公理教授(生活環境学部生活情報学科)朝日新聞で寝太郎の人物像を比較文明論で分析した。
平成16年(2004).大谷女子大(大阪府)岩佐博教授が「昔話研究」講義で厚狭の寝太郎を語った。
平成16年(2004)・朝日新聞の及川智洋記者が「ことばの旅人シリーズ」で寝太郎神社を記事にした。(現、法政大学非常勤講師)
平成16年(2006).作家の木下順二が新潮文庫で三年寝太郎を戯曲にして収録している
平成18年(2006)・寝太郎堰(寝太郎用水路)が全国疎水百選に選ばれる
平成20年(2008)・寝太郎権現奉賛会(縄田武顕会長)が寝太郎像の大掛かりな洗浄をした。(中電工の高所作業車)
平成22年(2010)・郵便局会社中国支社(上村雅巳士社長)は「厚狭の寝太郎伝説」の切手をオリジナル販売した。(1シートが80円切手10枚)
平成25年(2013)・講談社学術文庫「ものぐさ太郎から三年寝太郎」発行
平成26年(2014)・冷泉隆豊と厚狭寝太郎の点と線出版(大谷平八和幸著)
平成30年(2018)・テレビNHKBS風土記シリーズで[厚狭の寝太郎]が放映される(現地取材協力)
令和2年(2020)・戦国史「新宮党の一矢」に大内家臣の冷泉隆豊及び平賀清恒が登場している。新宮党は戦国大名尼子氏の精鋭家臣団であり、これらの史実に基づいて書かれた小説です。
令和7年(2025)・山口大学山口学研究センターが発行する紀要「山口学研究」(第5巻)で寝太郎伝説の話が興味深く取り上げられている
ウイキメデイア財団の維基百科(中国版)
(中国版で寝太郎がでていました。)
寢太郎的原形
被認為是以大?氏家臣平賀清恆為原形。
在父親平賀玄信被武田晴信打敗之後,
在??出嫁前做為冷泉隆豐所信ョ的周防大?氏仕官
在大寧寺之變逃到厚狹並開始進行農作物耕作}
並被供水不足的困苦農民的聲音給打動了
これを日本語版に直してみました。
寝太郎の原形は、周防の大内氏の家臣平賀清恒とされる。
父・平賀玄信が武田晴信に敗れたのち、
玄信の娘が大内氏の重臣・冷泉隆豊に嫁ぐ前に、
清恒は周防大内氏に仕官して信任を得ていた。
大寧寺の変の際に厚狹へ逃れ、そこで農業を始めた。
そのとき、水不足に苦しむ農民の声に心を動かされた。
※訂正すべき部分は、嫁ぐ前ではなく、嫁いだ後にですが
内容的には、ほぼ合っていると思います。
寝太郎祠、古有一老叟、苦思求護、
日偃臥於草葬、人不知其意、
以為懶眠、呼稱寝太郎、後得其術、
得良田居多、建祠祀之、
........
川北温山、文政6年(1823)
長州藩の記録にこんな文章があります。
庄屋が提出したものと思われます。
「一右広瀬村と申も格別由緒無御座、尤此沖千町畔と申所有之、
往古荒地ニて候所ニ厚狭之禰太郎と申者吟味ニて田地ニ相成候由地下人申伝候」
「寛保2年(1742)6月19日」、庄屋・長谷川彦右衛門記す
荒神社 但横壹間壹尺壹寸入壹間四尺壹寸貳歩惣藁萱 祭 月廿七日
一日祭り 但社人神勤神楽を奏し氏子中参詣、 夜中角力杯興行仕候事
寺傅曰、此荒神社厚狭千町ヶ原鬼門ニ當候故、
祈願之権現住吉三賽荒神一所ニ安置ニ句、
権現之儀は千町ヶ原開基寝太郎と申者之由ニ御座候、
古例を 以て千今正五九月為五穀成就祈祷日待月待等仕候事
右當寺初發之開基開山潮海大徳和尚と申、天台宗ニ句殊之 宗風繁昌之由ニ候處、
天和二年壬戌ノ三月廿四日出火二句寺院位牌世牌棟札什書ニ至
迄不歿焼失ニ付還化之年月相知不申、其後星霜押移大内之時代、
冷泉判官隆豊公之領内ニ相成、臨濟宗之和尚 當寺取立之由申傅候
本尊之儀は聖武天皇南都大佛殿御建立ニ付、豊州宇佐、為勅使行基下向之折節、
潮海大徳鑑穂風、右之佛像寄附 相成由申候事
上記の古文書を現代語に訳すと次のようになります。
荒神社の建物は「横一間一尺一寸、奥行一間四尺一寸、二歩で、
屋根は藁葺き」という規模です。
祭礼日は「毎月二十七日」で「一日祭り」として行われました。
その日は社人が神に仕え、神楽を奏し、氏子たちが参詣し、
夜になると相撲や杯事(酒宴や勝負事)が催されていました。
円応寺の伝承では、この荒神社は「厚狭千町ヶ原の鬼門に当たる場所」にあり、
祈願のための権現(権現神)と住吉社、荒神社をなどが
一所に安置されています。
権現については「千町ヶ原を開いた寝太郎という人物です。ある。
古くからの慣例として、正月・五月・九月を「五穀成就祈祷」の日とし
、日待ち・月待ちなどの法要や祈りが行われてました。
また円応寺の最初の開基・開山は「潮海大徳」という天台宗の和尚です。
その宗風が盛んでありました。
しかし、天和二年壬戌三月二十四日の火災で、寺院や位牌、棟札、書物に至るまで焼けてしまい、
潮海大徳の没年なども詳しくは分からなくなりました。
その後、時代が移って大内氏の時代となり、さらに冷泉判官隆豊公の領内となったころ、
臨済宗の和尚が当寺を再興しました。
本尊については、聖武天皇が奈良の大仏殿を建立した際、豊前の宇佐に勅使とし
て行基が下向した時期に関係しているという事です。
その折、潮海大徳がその「仏像のすぐれた徳と由緒」を見て、寄進を受けて本尊と
なりました。以上。
寝太郎神社保存会
(Netaro Shrine Preservation Society)
平成6年(1994)9月25日:寝太郎神社保存会を発足しました(山陽小野田市桜2丁目)

.
●寝太郎神社保存会・ 顧問/柳井雄三郎(山陽商工会議所会頭) 顧問/田尾進(寝太郎伝説研究会会長)
会長/幡生正隆(惣社八幡宮宮司) 副会長/浅海重之(小中学校元教員)
副会長/壹岐浩一朗(県商工会議所連合会常務理事)
以下、広瀬1.2区自治会長、および寝太郎伝説研究会理事若干名が参列、新聞記者同席、
●平賀清恒顕彰会・
平成10年(1998)9月27日(平賀清恒の命日9/27推測)に木像の入魂の儀が
惣社八幡宮で行われた。
平賀清恒顕彰会実行委員18名は
幡生正隆、縄田明人、倉重稔昭、原田満恵、重村房雄、中村勤、山本善一、田尾進、
竹野宏、山根幸雄、小野又悦子、塩満満志、
岸野雅二郎、壹岐浩一朗、山本光男、濱本澄人、小田典良、山村早苗
●平成6年、 記念碑の序幕式、寝太郎神社保存会の柳井顧問、向って一番左が幡生会長。
同境内、
荒神社 但横壹間壹尺壹寸入壹間四尺壹寸貳歩惣藁萱
祭 月廿七日 一日祭り 但社人神勤神楽を奏し氏子中参詣、
夜中角力杯興行仕候事 寺傅曰、此荒神社厚狭千町ヶ原鬼門ニ當候故、
祈願之権現住吉三賽荒神一所ニ安置ニ句、
権現之儀は千町ヶ原開基寝太郎と申者之由ニ御座候、
古例を 以て千今正五九月為五穀成就祈祷日待月待等仕候事
右當寺初發之開基開山潮海大徳和尚と申、天台宗ニ句殊之
宗風繁昌之由ニ候處、
天和二年壬戌ノ三月廿四日出火二句寺院位牌世牌棟札什書ニ至
迄不歿焼失ニ付還化之年月相知不申、其後星霜押移大内之時代、
冷泉判官隆豊公之領内ニ相成、臨濟宗之和尚 當寺取立之由申傅候
本尊之儀は聖武天皇南都大佛殿御建立ニ付、豊州宇佐、為勅使行基下向之折節、
潮海大徳鑑穂風、右之佛像寄附 相成由申候事

.

.

なお、現在の記念碑は再建されたもので、山本善一(町文化協会会長)の揮毫によるもの
。寝太郎神社の鳥居は明和8年(1771)に奉納されたもので、 明治41年(1908)寝太郎旧堰記念碑が建立。
寝太郎様を偲ぶ碑、佐渡島総合開発総合センターの玄関先に。山陽町・相川町 友好の絆として
昭和59年(1984) 7月25日建之、
石碑は山陽町、台座は相川町が担当,
昭和58年(1983)、相川町から親善視察団で椎野助役、議会の委員長3名、商工観光課長、佐渡金山社長
、商工会事務局長ら7名が来訪
姉妹都市の縁組構想が浮上、
せっかく姉妹都市への期待も高まり、積極的な協議も行われいたのに、
、わずか4年で双方のトップが交代するなど、交流は途絶えてしまいました。
、熱意が薄れてしまったのが残念です。
やる気になれば、双方の発展に
大きなチャンスがあったと思います。
私は部外者でしたが、その後も、個人的には佐渡住民と何度か交流を重ね
途切れ途切れながらも、今はまた新しい人物と関りをもっています。
いずれにしても、
佐渡市と山陽小野田市という大きな組織で動けば双方ともに大きなメリットがあると
思うのに・・・人口比は佐渡市49,336人、山陽小野田市59,311人、ほぼ互角では
ないでしょうか、
、
、
●寝太郎荒神の森345年記念碑・(寝太郎伝説研究会寄贈)
現在の記念碑は再建されたもの、古くは慶安2年(1649)の長門国大道並灘道路ノ帳に荒神の森として登場している。
元禄4年(1692)長門諸社御根帳でも、千町、荒神社などと紹介されている。
さらに元禄5年
(1692)には寝太郎荒神社として祭りが行われている。
寛延3年(1750)祠の周囲に松の木などを植えたとある。
「禰太郎塚・千町畔ト云フ」 千町畔と云は、先年厚狭の禰太郎と云う者才人にて千町の田面へ水懸りの工夫をいたし一向に千町を取立、
以後禰太郎死て千町の地主と祀り、依之禰太郎塚又は千町 塚共唱へ来ると里民の説なり、・・・(略)・
このように初期の頃は、たびたび禰太郎と呼んでいることから、本来は
禰太郎と言う名があったのではないかとも思う。
●草鞋奉納柱(寝太郎神社保存会寄贈)揮毫/山本善一、
●早魃ばつ記念碑(所在不明になっていたものを厚狭図書館の開初館長が
探し当てた旱魃記念石柱)修復2011/8/11

.

.
当会のホームページは全国のみなさまが閲覧され、「3年寝太郎」として
多くの問合せがあり、実際に「寝太郎神社」を参拝されています。
。
遠いところでは寝太郎観光だけの目的で神戸市から女性団体が来られました。
全国には熱心な「3年寝太郎ファン」が多いのに驚いています。
さぞかし期待をして、来県されるのだと思いますが・・・満足されているかどうか。
寝太郎ゆかりの地、記念撮影用の一夜碑を用意しています
同境内、荒神社
但横壹間壹尺壹寸入壹間四尺壹寸貳歩惣藁萱
祭 月廿七日 一日祭り
但社人神勤神楽を奏し氏子中参詣、夜中角力杯興行仕候事
寺傅曰、此荒神社厚狭千町ヶ原鬼門ニ當候故、
祈願之権現住吉三賽荒神一所ニ安置ニ句、
権現之儀は千町ヶ原開基寝太郎と申者之由ニ御座候、
古例を以て千今正五九月為五穀成就祈祷日待月待等仕候事
右當寺初發之開基開山潮海大徳和尚と申、天台宗ニ句殊之
宗風繁昌之由ニ候處、
天和二年壬戌ノ三月廿四日出火二句寺院位牌世牌棟札什書ニ至
迄不歿焼失ニ付還化之年月相知不申、
其後星霜押移大内之時代、冷泉判官隆豊公之領内ニ相成、
臨濟宗之和尚當寺取立之由申傅候
本尊之儀は聖武天皇南都大佛殿御建立ニ付、
豊州宇佐、為勅使行基下向之折節、潮海大徳鑑穂風、
右之佛像寄附相成由申候事
千町ヶ原開基寝太郎
@平賀清恒木彫像材質、クスノキ、 高さ36p、重さ2.5kg、裏面には平賀家の紋章がある。惣社八幡宮宮司、
幡生正隆氏所蔵(寝太郎神社祭主)
Aは昭和59年(1984)佐渡ヶ島に寝太郎碑が建立された時、 重村房雄氏(文化協会会長)が朗読された寝太郎物語の原稿、
このとき寝太郎様を偲ぶ碑は、相川町のあいかわ開発総合センター前に設置された。(だが金山という資料だけで、
有名な相川町と誤解されているが、当時の相川ではまだ金山が発見されていない) 当会の脚本では小木港に流れ
着いたのち、一山超えた西三川金山に向かったとしている。
(平成14年厚狭郵便局資料展)で設置したご意見箱には、たくさんの意見が 寄せられ、
中でも「せっかく山陽町・相川町と友好を結んでいるのに,
今更、西三川とは、云々...」とあったが、ちょっと 申し訳ない気はしている。
なお、昭和57年(1982)に山陽商工会議所の柳井会頭が佐渡へ旅行したさい
バスガイドが話していたのは、ワラジと甘酒を交換したというのだ。
山口県では古いワラジと新しいワラジの交換であるが、
甘酒も持参したのであろうか、
それについて、ひとつ信ぴょう性が増した気がする。実は寝太郎を支援した人物に
大庄屋の枝村孫衛門がいる。彼は酒造業を営んでおり、甘酒の話がでても不思議ではない。
この孫衛門は3代目だったが、子孫も代々酒造業を営み、17代枝村喜太まで続いて
明治29年に廃業し、その末裔は埼玉県に移住された。
、
寝太郎紙芝居上演(有料上演で15年間、数千人の方にご覧頂きましたが
現在はその普及も終わりました。
防長戦国史と寝太郎伝説
頃は、戦国時代のこと、日本各地で武将の夢と野望が渦巻いていた。中国地方も決してその例外ではない。文人派の大内義隆と
そりが合わなくなった武人派の陶晴賢は、同僚、杉重矩の陰謀にかかって主君、義隆を討ってしまった。
その晴賢も西国進出の野心に燃える毛利元就の謀りごとに乗って出陣したが、厳島での奇襲作戦に敗れて自害する。
勢いついた元就はさらに大内義長をも討ちとり、周防と長門の両国を手中のおさめていく。
この物語は防長三武将というドラマを核に、大内義隆の家臣、平賀清恒が寝太郎のモデルで
あるという説を辿り
厚狭の地に身を伏せて、千町ヶ原を開拓する業績を残しながら、歴史抹殺された経緯を推測するなど
古文書のナゾに迫りながら紙芝居の脚本として鋭く追及している。(防長戦国史調査会所属)
寝太郎落ち武者伝説(平賀清恒物語)
紙芝居「寝太郎落ち武者伝説」の上演祈願祭は平成4年4月3日、円応寺の寝太郎権現堂で行いました。
寝太郎紙芝居上演会 寝太郎紙芝居上演祈願祭
(平成4年3月)大型紙芝居 ベニヤ板600ミリ×900ミリ:セット総重量37s(台座付き)・著作登録 第111480号
脚本/田尾 進、絵画/竹野 宏
ナレーション(15分)小野又悦子/(30分)川崎美奈子
紙芝居は15年にもわたり各公共施設、学校など、依頼を受けた場所で上演し
大きな反響を呼びました。100名を超える上演会もたくさん行ってきました。
数千人の方々にご覧頂き大きな反響を呼びました。
第1幕戦国の情勢、第2幕籠城合戦、第3幕疲労の限界、第4幕武田軍の奇襲、第5幕大内家臣となる、第6幕反逆に遭う、
第7幕義隆の自刃、第8幕落ち武者、第9幕開拓の誓い、第10幕3年3ヶ月、第11幕佐渡へわたる、第12幕砂金取り、
第13幕開拓工事、第14幕寝太郎死去、第15幕歴史の謎、
(下の写真は文化会館での上演、120名)
[スタッフ] 壹岐浩一朗、原田満恵、 [撮影] 田尾やす江
寝太郎紙芝居(全15幕)は平成14年3月1日から、平成15年1月までの10ヶ月にわたり、
解説つきで厚狭郵便局窓口のロビーにおいて展示いたしました。メモ投入箱を設置して
多くの方々から暖かいメッセージを頂きました。
(1幕展示期間約3週間)寝太郎紙芝居祈願祭
テレビでも3回紹介されました。
その他、平成30年5月4日に放映されたテレビNHKBS[風土記シリーズ]の制作では
、元図書館長・開初さんの推薦で。
株式会社ドキュメンタリージャパンより、
寝太郎番組のオブザーバーに依頼され現地取材の立ち合いや、3年寝太郎に関する
古文書の解読などに協力しました。
テレビ放映で風土記シリーズでは、エンドクレジットで、私の名前が字幕で流れました。

ゆかりの地
大型絵馬奉納(梶浦)厳島神社
、
平安時代の延暦23年(804)安芸国宮島より勧請し、
当初は[古開作厳島明神]と称していたが、文禄2年(1593)に
毛利輝元が改築し、厳島神社と改名、、正徳5年(1715)に燃失 その後
神殿が再建される。現在の神殿は明治23年(1890)に再建したもの。
御祭神は 宗像三女神です.
絵は竹野宏副会長、この日、宮司さん始め24名が参加して
絵馬の裏に名前を記しました。(ビデオ撮影/長谷川一夫)

寝太郎が大量のワラジを保管したと伝わる縄田家の土蔵、
寝太郎大使©、平成10年(1998)2月
寝太郎大使は山陽小野田市出身で県外在住者に限ります。寝太郎の普及だけに限定するなど、いくつかの制約があります。
氏名、住所、電話番号、メール、都道府県名などをお知らせください。(各都道府県に1名限定)
2021年02年16日、寝太郎伝説研究会30周年記念とし、
全国の寝太郎大使19名に感謝状を発行しました。
平賀清恒のブログでも広く情報発信していますので参照してください。
E-mail: tao@rice.ocn.ne.jp

.
大内家の直系でありながら遅く生まれた義世は本家を継げなかった。
そのため義世の末裔は生き延びた
大内家31代義隆で途絶えた本家に対し、分家となった29代義世の系譜は歴史上では
消されてしまったが、西郡大内家(宮城県)として今なお45代を継承している。
大内家の本当の血筋は続いているのだ。
大内家の祖は百済国の琳聖太子という説が疑問視されていたが
近年、それも薄れており、
さらに奈良時代の国史である[続日本紀]にも、
「我れれ、高麗・百済・新羅の人等、久しく聖化を慕ひて來り我が俗に附き、志に姓を
給はらむことを願う者には悉くにこれを聴許す」とあり、
琳聖太子もこれにより、最初は多々良の姓を賜り、のち住んでいた土地の大内を名乗ったと
思われる。
また琳聖太子が日本に逃れてきたときに身に着けていたという
鉄兜が大内家の家宝として存在していた。(上記で写真掲載)
。馬にまたがる琳聖太子像もそうである。
なお大内家本流が途絶えた後も、いや実際には途絶えていなく、密かに生き延びて
いたことが証明されている・
確かに信ぴょう性のある系譜も見つかっており。
45代を継承している方がいる。そこで、この兜は確かに
大内氏直系の証だといえるのだ。
まず27代大内持世は弟特盛の子教弘を養子にして家督28代を継がせた。そこで持世の
実子でありながら、遅く生まれた義世は家督を継げず東北地方に逃れていった。
むしろ義世のほうが直系と言えるのだ。
その末裔が存在していたのだ。
その時に賜った鉄カブトである。原文に
義世ハ太郎左衛門尉持世嫡子初持世無子養弟持盛子教弘為嗣後義世出生故嫡男不承家」
それはさておき、大内義隆が養子に迎えた義房(大内晴持)が、大内義世
(自称/別系29代)の子、義生に下した大内直系(別系30代)の証となる文書。
(写真G)義生の子義綱(別系31代)は
「太郎左衛門備前守居干奥田村塩松間後属干塩松式部大輔尚義尚義嘗国政不正是以
家臣離叛而掃義綱義綱終追尚義而領其地 、小濱小手森月山岩角新城樵山築館......(略)
とあって
その後、 天正11年(1583)に亡くなっている。義綱の子、大内定綱(別系32代)は
天正16年(1588)仙台藩初代藩主の伊達政宗に仕えて天正18年(1590)登米の戦で手柄をたてた
これは平賀清恒の弟季恒が仕えたと思われる時期と、一応重なる。弟は白石宗近の養子になって
白石季恒(のち国長)と名乗った。これが子孫の平賀源内につながる。なお源内には子が居なかった
ので妹の里与が養子を迎えて平賀家を継承し、今なお香川県に末裔の方が住んでいる。
なお一方、別系33代の大内重綱は、のちに西郡城主とまでになった。
なお昭和62年の8月に、西郡大内家一族のご一行様(およそ20名)が山口に観光に
来られたことがあり。確か小さな横断幕を掲げておられたと記憶している。
佐藤哲夫さんを始めとする郷土史研究会のメンバーでした。
偶然にも、私が交流していた歴史研究家は、この方のご親戚にあたる
佐藤徳夫さんだということでした。
なお先の著書「寝太郎と大内氏系譜」で枝別れした大内義世の分家は
44代の勤氏だと示したが、現在、45代を継承しているのは大内公夫氏だという。
氏は全羅北道益山市の「名誉広報大使」に委嘱され両国の橋渡しとして
活躍されているようだ。
(参考、明治初年、神仏分離によ寺院整理により鴨社に安置されていた
百済聖明王后妃の持尊仏と伝わる十一面観世菩薩が大福寺の別堂に
祀られることになった)
その他
郷土史研究家、大谷和幸様との交流
上記の 大谷様の著書も、私が監修を務めさせて頂きました。大谷様は大寧寺・寺家老の末裔の方です。
NHK Taiga Drama series Mori Motonari
大河ドラマ「毛利元就」の誘致運動5年間
実は私、大河ドラマ毛利元就の誘致運動に関わった
七人の侍の会のメンバーでした。(会長中村秀昭)
NHK大河ドラマ「毛利元就」の誘致につながった防長三武将サミットの写真、
(平成9年・1997年放映) この写真は第5回サミット(平成6年4月)、フェりーで宮島に
渡る時です。私を含め 100名以上の団体が、陣笠に陣羽織の出で立ちで乗り込みました。
(三武将とは毛利元就、大内義隆、陶晴賢です)
平成3年3月、大河ドラマ誘致の立役者で
ある七人の侍の会(中村秀昭会長、
) に加わり各地を奔走しました。、平成9年の大河ドラマ誘致まで山口県・広島
県各地にわたるサミットに参加しました。
その中には各地の市長さん、教育長さん、議長さん、
大学教授、 歴史家など著名人もたくさんいらっしゃいました。 NHK大河ドラマ毛利元就の誘致は、
七人の侍の会(中村会長・当時、新南陽市議としても活躍)が仕掛けた民間の団体です。 実に中村会長は九州2県・中国5県の
16市5町のネットワーク(300名)を構成されました。
平成3年7月の第2回サミットでは、広島県吉田町の郡山城跡で 映画会社から借りた武具を身につけました。
(写真参照) この時、私は若山城主/陶晴賢の家臣に扮して盟約の儀に登場しました。(本来は大内家臣の
平賀清恒に扮したかったのですが、それは叶わず)、
また、
この脚本で義兄、冷泉隆豊(塚ノ原城主)は活躍しましたが、
平賀清恒の存在がなかったのが残念です。)なお私は若山城跡の
「1夜城の築城」にも参加して汗を流しました。(上記写真)
中村会長の著書に、蘇れ若山城防長の3武将物語、趣味は「ふるさと」なり、 ふるさと発21世紀のメッセージ、
青春夢日記など4冊あります。驚くことに、 そのうちの3冊に私の名前が掲載されています。 とくに恐縮したのは
「七人の侍の会との出会いから」という私の拙い文章が 2頁にわたり(264ページ.265ページ)掲載されていたことです。
私はこの方から大きな影響をうけて、地域に貢献するようになりました。本当に感謝しています。 そして、美しい歩きたくなる
日本の道500選「陶の道/若山城登城のみち」は、中村会長の永年の夢でもあり、青年団長の頃から整備されてきた と言われる。
今なお「陶の道」観光案内のリーダーとして活躍されている姿に心をうたれます。

上記。大河ドラマのシナリオを頂きました
なお大河ドラマ放映に先駆けて、
いち早く、厚狭郵便局で毛利元就誘致の記録展を開催いたしました。
防長三武将サミットを通じて県内外の著名な先生方にも、たくさんお会いして
お手紙などの交流、情報や資料の交換、
これにより歴史研究グループの輪が大きく広がりました。
恐縮したのは千葉大学の井上孝夫教授(社会学博士) からのお手紙でした。 平成16年(2004)
当時は先生の肩書は知りませんでしたが、あとになって寝太郎伝説の深層構造を科学的な検証で
追及され学会でも有名な先生だとわかりました。
もちろん先生は学術的なお考えを貫かれておら
れますし、信憑性の乏しい我々の研究を取り上げられることはありません。 当会への賛同もあり
ませんが、批判されることもありませんでした。それはそれで良いと思います。当会としても
寝太郎に関連したものだけを探し求め、 それを組み立てて、寝太郎に近づけていったという感も
するからです。当然そぐわない資料は排除してきたのですから、 公平と言えるのかどうかは疑問です。
・・・また当時、東亜大学の学長をされていた安部一成先生(経済学博士)山口大名誉教授とも、
中村会長のご紹介により,諸々の祝賀会等での同席含め 15年近く親交がありましたが、平成23年(2011)10月に亡くなられ たと
聞き驚いています。 お悔み申し上げます。 なお県議会議員(議長歴任)の故伊藤博彦先生も「寝太郎
落武者伝説」の紙芝居をご覧になり 以後、お力添えを頂いた方です。私どもが掲載された新聞記事など
も、切り抜いて送って下さるような方でした。
寝太郎に関わる人物像のご紹介・・・・ なお資料転載の部分もあります。
●中川長八(通称・新五郎)なる人物・・・佐渡島で西三川金山を密かに取り仕切っていたが、
のち幕府の管轄となり追放され但馬に移る。
なお不正蓄財の砂金で豪商、但馬屋の主となった人物で、南部但馬鉄三郎と名乗ったらしい。
(注)一般に佐渡相川の砂金山と誤解されているが、当時の相川ではまだ砂金は発見されていない。
本会の示す西三川では今昔物語集にも見られるように建久9年(1198)頃より密かに
開発されていたという記録に基づいている。
●また帝国大学教授で国史学者であった、星野恒博士(天保10年生〜 大正6年没)が武田晴信(信玄)
について述べている書物に
「信濃川と平賀村」の項があり、その中で
平賀郷について示されているが本来、佐久郡の3庄とは、伴野之庄、大井之庄、縄田之庄であった
ことから、
平賀郷とは清恒の祖(義信)が縄田之庄に城を築いて、平賀之事に改称された由来に
基づいている1文とも言える。氏は大日本編年史の編纂にも深く関わっている。
●元新潟大学教授の臼井格博士は実際に寝太郎木彫像を手に取って詳しく観察され、その風格に感銘されたという記述が
平成3年の資料に掲載されていた。だが寝太郎像は地域のお祭りの時以外は、持ち出されることはないので、。
寝太郎権現堂に足を運ばれたのだろうか。氏は佐渡海中公園調査等を通じ寝太郎が辿った小木港にも精通されていたので、
興味をもたれていたことは想像できる。
大内重綱は正保元年(1644)に1,264石で宮城県登米郡、西郡城を拝領し、子孫は明治維新まで居住しました。
寝太郎に協力した矢野主水貞政
、寝太郎の同僚/内藤隆信勘解由(清覚僧)
、寝太郎の支援をした酒造業、枝村孫衛門など.
(祐念寺の開基は内藤清覚で1565年、1621年に清俊に代わる。)
(再掲載)免責事項
当ホームページに掲載された内容については、まだまだ未筆な部分があります
充分注意を払っているつもりですが、その内容の完全性・正確性等に対しては、
不十分な点がたくさんあります。
各地からのお問合せについても十分な対応が
できない場合もありますが、専門家ではないので、
多少はご理解頂ければと思います
なお 当会のホームページの掲載情報には、幾分不備があるため
内容を用いることで
生じたトラブルには責任を負うものではありません。
(著書)寝太郎落武者伝説
(著書)寝太郎と大内氏系譜、
(著書)寝太郎伝書のナゾ
(著書)寝太郎伝説ゆかりの地
(小冊子)寝太郎偽書・悪七兵衛景清
(小冊子)寝太郎と矢野主水・貞政
(小冊子)寝太郎と清覚僧・内藤隆信(勘解由)
(小冊子)寝太郎古文書の究明(田尾進解読)
(小冊子)平賀清恒検定(田尾進出題)
(共著)絵で見る寝太郎伝記 (竹野宏画・田尾進文)
(共著) 寝太郎絵伝 (竹野宏画・田尾進文))
(紙芝居)寝太郎落武者伝説・清恒物語 (田尾進脚本)
(監修)冷泉隆豊と厚狭寝太郎の点と線「大谷和幸著」
(監修)厚狭の寝太郎/平賀清恒 (漫画/広中建次著」
(寄稿)ふるさと発21世紀へのメッセージ「中村秀昭著」
(音楽) 寝太郎史伝 (作詞/田尾進・作曲/潮中良子)
Netaro Legend Research Societ
寝太郎伝説研究会
会長 田尾 進
最後までご覧頂き、有難うございました。