寝太郎は実在の人物だと思われる。寝太郎伝書を紐解き、その謎を解明していくと
清和源氏第23代末裔・平賀清恒公 (1523〜1610?)であり、
父は平賀城主/平賀成頼入道源心(玄信)で、母は岩村田城主第12代/大井忠孝の娘だったと
推測される。
その兄、貞隆は
大井家13代を継承しているが、寛永諸家系図伝では、平賀源心を養子とし、系譜に載せている部分もある。
なんとも、不可解な1面もあるが、それほど有能な人物だったのであろう。
突如、現われた勇者ではあるが、
いずれにしても平賀源心は平賀の姓を名乗って、平賀城の当主になっている。
資料によると、砦もあったし、出城もある。そもそも武田氏と戦ったのは海ノ口の出城である。
龍ケ岡に構えた本城で破れ海ノ口に籠城したとの説もある。
これより先、清恒の姉、姚子は周防国を治める大内義隆の家臣、冷泉隆豊に嫁ぎ元豊が生れている。
そして妹は長野県佐久市、伴野城主貞祥公の指添老中を務める市川信次に嫁いだ。
そして信秀を生んだ。
なお弟の季恒は宮城県仙台市の伊達政宗の家臣である白石宗近の養子となって白石姓を名乗った.
そして季光が生れている。その末裔は、平賀の姓に戻して、今なお香川県に在住されている。
平賀成頼入道源心より数えて、多少の紆余曲折はあるが15代目と思われる。
"Netaro Legend Research Society"
民話の域を出ない寝太郎
寝太郎なる人物を突き詰めていけば、防長風土注進案(1841)の内容が最も信ぴょう性があると
されている。しかしこれらは長州藩の全17宰判、全町村の主だった人々が記録したもので原則として
1町村につき1冊、
計395冊に集約されたものの、あるていどの制約があり名もなき農民の口出しできるものではなかった。
そうした状況で実際に埋もれた歴史の多くは日の目を見ずに、うやむやにされたと思われる。
もっと歴史を遡り、その人物像に迫るなら枝村家屏風の文政初年(1818)の祠、雲華書末尾の1文(1808)
防長地下上申絵図にみる祠(1728)或いは千町や荒神社の存在、さらに貞享検地(1686)で飛躍的な田畑の
開墾実績など、その存在は疑う余地もない。また慶安2年(1649)の長門国大道並難道舟路ノ帳にも
寝太郎荒神の森が明記されている。
こうしたことから
おそらく寝太郎没後30年後には、すでに農民に高い評価を受け、祠に祀られていたことが伺える。これらを
推測すると「防長風土注進案」よりも、さらに200年近くまで遡ることができるのではないだろうか、
歴史を学ぶには単に事実の証明よりも、その事実をどのように捉えるか、また学びての解釈により、
その経験、立場、価値観によって大きく変わってくる
また寝太郎が誰であったかよりも、誰が千町ヶ原を開拓したのかと云うこと
。つまり寝太郎とは時代的背景により、実名に触れることの出来なかった人物を
意味し、人々が考えぬいた没後の愛称であろう。
そもそも「防長風土注進案」は長州藩が実態調査を進め集大成したものである。虚実の
報告をすれば、どんな厳罰があったやも知れない。その中で寝太郎が記載されている
ことは名を明かせない実在の人物がいたということに他ならない。このため至って
あやふやに祢太郎、或いは禰太郎と記載する文書もある。
もちろん注進案の報告は過去を遡るのであるからこの業績が注進案と同時に始まった
ものではなく数年、数十年も遡った前の業績なのである。
これらのことを前提に深く掘り下げないと何も始まらない。また資料とはどのみち
材料であり、それをどう使って事実のイメージを作るかである。
しかし、いくら私が追求してみても、所詮は素人の研究にすぎないとの先入観があるため、
みなさんに理解してもらうことは無理であろう。だが山口大学には「山口学研究センター」
なるものが存在し、そこで行われたプロジェクトの成果などをまとめた「山口学研究」
というタイトルの冊子が刊行されている。そこにも、寝太郎に関する記事があり、
厚狭川の固定堰「寝太郎堰」や「寝太郎用水」、千町ヶ原開発の功績譚として、
寝太郎が地域に根付いていること、更にはこの伝説が江戸中期ころには完全に定着して
いたことから、現実味を含み、、非常に興味深いとの説がある。
そこで今から260年ほど前に書かれたと思われる>
寝太郎伝書は決して作り話などではなく史実に基づた記録だと思われる・
なお私なりに多少は尾ひれをつけて脚色してるかも知れないが
骨子そのものは間違っていないと思いたい。
円応寺にある寝太郎木彫像については当時の「閥閲録」や「村限明細絵図」等の由来書で
延宝8年(1680年)頃の制作あり、最初に彩色されたのは享保5年(1720年)頃とあるが、
実際に木像の台座裏には寛延4年(1751)と記してある。そして再彩色としてあるのも
2度目の彩色であるからだ。なお先の著書「寝太郎伝説ゆかりの地」37頁でも述べたとおり、
古文書の表装仕立ての特徴は享保10年(1725)頃と見ているのでその当時に模写された内容に
改ざんがあったとすればどうにもならないが、内容的にみても改ざんする意味はないはずである。
ちなみに木像の作者は寝太郎自身ではないかと某有力者が述べていたが、私はそうではないと思う。
その理由は 著書「寝太郎伝説ゆかりの地」(17頁)でも述べている。
それに作者は円応寺の4代海呑和尚だとする資料を目にしたことがある。
確か昭和の終わり頃、曹洞宗に関する機関紙だった気がするのだが、思い出せない。、
平成3年(1991年)2月16日
寝太郎伝説研究会会長 田尾 進
全国のみなさま「3年寝太郎」で有名な厚狭の里へお越しください。
※お問合せにつきましては必ずメールでお願いします。電話での対応はご遠慮ください。
県外からの団体様につきまして予約での、案内ガイドを行っておりましたが、
現在は一旦中断しています。
疏水百選寝太郎堰、寝太郎旧堰付近、寝太郎用水路、寝太郎権現堂、円応寺、
駅前寝太郎像、寝太郎神社、塚之原城跡、清安寺、
縄田家わらじ蔵、老松桟橋付近、惣社八幡宮、平賀清恒木彫像
梶浦港跡地付近、梶浦厳島神社、など
寝太郎大使©の募集(応募は最終ページをご覧下さい)(寝太郎検定委員)平賀清恒ネーミング登録
平成10年6月30日(第116649号)
Netaro Legend Research Societ
Chairman, Susumu Tao
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上は寝太郎木彫像(円応寺)、平賀清恒木彫像(惣社八幡宮)、寝太郎銅像(厚狭駅前)
、当会の名誉会員だった井口さん作の寝太郎人形
Kamishibai
紙芝居上演は、プロジェクターで84インチのスクリーンに写し出します.
脚本、田尾進・絵画。竹野宏
(@寝太郎落ち武者伝説、A絵でみる寝太郎伝記)
@絵で見る寝太郎伝記 。文、田尾進・絵、竹野宏

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A紙芝居、寝太郎落ち武者伝説(平賀清恒物語)

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あらすじ(制作著作)
厚狭の寝太郎/平賀清恒 原作・田尾進
・
西三川砂金山
この佐渡金山は相川金山ではなく、佐渡最古の西三川砂金山のことであり、
尾張国から来た中川長八(のち但馬屋の主)という人物が探り当てて
密かに大流し採取法で財を成していたという。
のち、幕府の監視下に置かれるようになって
長八は追放されてしまいます。
(西三川砂金山は平安時代から始まり明治初期に閉山している)・
publication /
出版物・資料の紹介
絵でみる寝太郎伝記、絵・竹野宏 文・田尾進

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資料及び、マンガ「厚狭の寝太郎」作者/田尾進、漫画/広中健次、
平成13年(2001)6月より〜平成15年(2003)5月まで、広中さんの協力で
2年間にわたって中国新聞に連載されました。
それをコピーして前編、後編にまとめたものです。現在、1冊にまとめた本もあります。
各図書館等に寄贈しています。

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系譜の紹介 (Introduction to the lineage)
寝太郎伝書所蔵者、縄田明人氏(中学校長や、高校/短大講師を歴任)

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防長風土注進案より・
山川ノ野田ト言ヘル所ニハ、今ニ牡蠣ノ附キタル石遺レリ、
然ルニ年ヲ経テ何時ト無ク埋マリ、後世ニ当タッテ、八中々汐ノ
通ヘル事モ無ク、広々タル空キ地トナリケルヲ、中古大内家、四箇国ノ
武将タリシ時ニ当タッテ賎ノ男ニ、一人ノ異翁有リ、世渡リノ生業ヲ
事トセズ、
常ニ寝ル事ヲ要トシ万ノ工夫スル事、天晴ノ生質タリ、爰ニ於ゐテ世人、
ソノ情名ヲ言ハズ、寝太郎、寝太郎ト呼ビシト也・・・以下略
寝太郎伝書を所蔵する縄田明人氏、
縄田家とは、
寝太郎伝書(平賀系譜)を所蔵する縄田家は清和源氏の流れを汲む公家一族から
でた大内惟信の末裔が、竹内信治と名乗り,さらに系譜を辿ると、竹内から縄田へ
と分れた人物がいる。それが厚狭に移り住んだと考えられる。この縄田氏は国政に
関わる職についており、このことが清安寺(厚狭不動寺原)にある格式の高い墓石
でも証明されている。
また縄田の2代も半家という文官で優れた歌人であったようだ。3代は武官双方の
太政官であり、さらに4代も国政に関わる地位に就いていた。また5代、計恵氏も
知識人であり、現在の当主、明人氏は6代目にあたり名の知れた教育者である。
縄田家の口伝では3代の某氏がボロボロになった古文書の維持ができなくなり
止む無く模写して残したというのだ。それが嘉永年間(1848-1853)だと推測されているが
この模写が信ぴょうを問われる原因であった、然るに本体の巻物は、そのまま仕様したと
みられ、微妙な小細工の跡も伺える。また信ぴょう性が問われるその内容も確かに1部、
不審な部分があり、この部分を入れ替えると辻褄があうと思える部分がある
これは意図的な改ざんか、或いは単なる誤記なのかはわからないが。改ざんする
メリットはないはずである、これを修正すれば、年代の辻褄があうのだが同時に私の
著書の内容も、何カ所か訂正しなければならなくなる。
まだまだナゾが多いのも事実であるが、いずれにしても、当時の状況下でこれほど詳しい
内容を知りえて書き残せることはできないはずである。なお近年になって初めて究明された
偽造なら、今から200年も前にそのような情報を知りえるはずはないと思うのである。
いずれにしても、
系譜を遡っていくと平賀盛義から始まった本流が河内源氏の武将、平賀義信への系譜となり、
片や鎌倉幕府御家人の大内惟義への系譜があり、大内系譜はやがて大内惟時が竹内姓に改め。
竹内惟時に、さらには竹内信治、やがて縄田家への系譜へと広がっていったようだ。
一方、竹内姓の本家を継いだ竹内為脩の長男は竹内姓を守り確かな系譜を残している。
竹内長治のあと竹内虎之助、竹内弥藤次、竹内庄右衛門と続いて、明治時代を迎えるころ、
竹内綱(1840-1922)に5人の子、明太郎、欽次郎、虎治、直馬、茂がいたが五男の茂は、
父の親友であった実業家・吉田建三の養子になり、なんとそこで、政治家を志し、やがて
吉田茂(首相)という輝かしい系譜を残した。

なお平賀城主15代当主(清和源氏より第21代)平賀貞義の家臣、相木仁兵衛の娘を配下の武藤実永が娶った
ことで、その武藤文書にも平賀家に関する詳細な記載がある。なお相木仁兵衛は、岩村田城主
13代大井貞隆に使えていた相木市兵衛の身内でもあった。
さらに驚くことは大井貞隆の妹が、平賀清恒(寝太郎)の母である。さらに付け加えると
平賀城主16代平賀成頼入道源心(玄信)の姉が、岩尾城主11代大井行真に嫁いでいる。つまり清恒にとって伯母に
あたるわけだ。伯母の子に行頼がおり、天文5年(1536) 武田軍との戦いでは平賀源心に加勢して
ともに海ノ口出城で戦った。歴史家山崎先生の研究では大井行頼は永正6年(1509)に生れているから
、このとき27才であった。
平賀城10傑と言われる武将
上原伊賀守、小林右近、上原筑前守、堀源太、尾崎三郎、中川和泉守、
長谷川大和守、曽根隼人正、武藤備中守、依田能登守
3年寝太郎記念館/平賀清恒記念館
これらは拙宅の離れにある書斎(24u)であり、一般公開の建物ではなく
、寝太郎伝説研究会の会員の情報センターです。
平成9年(1997)寝太郎記念館©としてネーミング登録し、広く情報発信してるものです。
長年の研究成果は寝太郎落ち武者伝説として発表しました。平賀清恒額像(高さ30p、
横幅35p、厚み4p、重さ1.9kg)
寝太郎に関連した資料100数点は、厚狭郵便局でも数か月間、展示したことがあります。

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寝太郎の弟。平賀季恒秘伝
平賀成頼入道源心ノ次男ハ、平賀季恒也、天文三年(1534)
頃ニ生ル
、同五年(1536)ノ海ノ口出城崩壊ノ時ハ、若干三歳ニシテ、家臣ニ背負
ワレ脱出、ノチ奥州ノ、
白石ニ居住シテ白石季恒ト名乗リ伊達家ニ仕ヘル、ソノ後、サラ
ニ白石国長ト改名ス、ソノ子季光モ、ノチニ国光ト称ス、ソコデ
季恒(国長)ヨリノ系図デアルガ、二代季光(国光)、三代ハ国
家、四代国行、五代良盛、六代良寛、七代良房、ソシテ八代ニハ、
江戸ノ天才発明家ノ平賀源内(国倫)ニ至ル、ナホ源内二ハ、子供ガ
イナイ為、妹、里与ニ岡田磯五郎ヲ迎ェテ、平賀家ノ跡目ヲ継ガス
、磯五郎ハノチニ、権太夫ト改名、里与達ニハ,
明和八年(1771)二、一人娘ノ直ガ生マレタ、コノ直ハ、美禰ト改名シ、天保八年(1837)二
、上野家ノ晴清(金太夫?ニ嫁グ、此レ二ヨリ平賀家直系ハ絶エタガ、美禰達ハ、
三男四女ニ恵マレタ、長男弥八郎(元継)ガ庄屋ヲ継イデイタガ、・・・・・(以下略)
@

A

B

C

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「千石船の模型と曽我氏]
3年寝太郎が佐渡島小木港にワラジを運んだと推測する千石船であるが、当時は300石積み
以上の和船これを
を総じて千石船と称していた。この模型は (全長160p、幅52p、マストまでの高さ92p、
甲板上の伝馬船全長25p)畳1枚分のスペースです。材質はヒノキとケヤキで板のつなぎ合わ
せも本格的な造り。 ベテランの船大工/曽我秀雄氏が1年がかりで製作しました。自宅にお伺いして、
千石船の製作課程も説明して頂きましたが、
船体の各所に
大小200個余りの銅版がはめ込まれている本格的なものです。
新聞記事にもなりましたが。
希望価格100万円のところ、半額の50万円で防府市の上村家が購入されました。(平成10年当時)
私はすぐさま、寝太郎の千石船に結び付けて「梶浦の弁才丸」と命名し著作登録に出願しました。
この弁才丸も、ただの千石船ではなくなって、希少価値がでるのではないかと
思っています。完成した千石船の写真を載せていますが、製作途中の写真など、多々あります。
なお、山口きらら博の進水式で話題をよんだ遠石丸も曽我秀雄さんの作品であり
山口県立博物館に、展示されました。全長8メートルの木造船です。
権現と荒神「寝太郎」に関する記録
慶安2年(1649)長門国大道並難道舟路ノ帳に寝太郎荒神の森が明記されている
延宝8年(1680)寝太郎木像製作か(海呑和尚の説を逆算して推測すればこの頃になる)
元禄4年(1691)「長門国諸社御根帳」に寝太郎ゆかりの千町や荒神社の文字がある。
元禄5年(1692)末益村広瀬地区に寝太郎神社が祀られる
享保5年(1720)白木の状態の寝太郎像を彩色したとの説あり、(海呑和尚)
享保12年(1727)円応寺の寺社由来に寝太郎権現、荒神の文字あり
享保13年(1728)萩藩が作成した地下上申絵図に寝太郎、千町ノ畔が記されている
寛延3年(1750)末益村広瀬地区に寝太郎塚が祀られる
寛延4年(1751)寝太郎稲荷像を再彩色したと(台座裏)に記載
宝歴2年(1752)萩藩の絵図方役人の有馬武春喜三太(喜惣太)が沈流亭で筆をとり寝太郎塚を描いた
明和8年(1771)寝太郎神社の鳥居が奉納される。
天明元年(1781)毛利の家臣、熊谷彦四郎知行所の諸山絵図に円応寺荒神堂があり、
文政元年(1818)雲華院大含(信慶)が、頼山陽と供に枕流亭に宿をとり屏風絵に寝太郎塚を描いた。
文政4年(1821)内藤昌盈(号/静修)の「官暇漫吟」に寝太郎伝説が謡われている
文政6年 (1823)島原藩主の松平忠候に随行した川北温山が寝太郎祠を記録している。
文政9年(1826)京都の文人画家、浦上春琴(伯舜)が寝太郎に関する2首の詩文を残した
文化9年(1812)儒者で詩人の広島福山藩の管茶山も訪れて寝太郎の所感を残している
天保2年(1830)百姓一揆の勃発、千町ケ原の南北で対立し寝太郎木像の奪い合いで紛失との説
天保13年(1842)寝太郎が防長風土注進案で紹介されている
明治4年(1871) 廃藩置県に伴って行政区の改正で寝太郎の町名が浮上
明治14年(1881)惣社八幡宮へ寝太郎神社の存置願いが出され許可される
明治17年(1884)戸長役場区域数村連合の管掌が更定され寝太郎の町名あり
明治31年(1898)寝太郎餅が発売される(発案/千原芳助)
明治41年(1908)寝太郎旧堰記念碑の建立
大正12年(1923)寝太郎神社の絵葉書が発行される
昭和元年(1926)出合村寝太郎町が2区に分割され東寝太郎、西寝太郎となる
昭和3年(1928)円応寺の黙仙和尚が須弥棚で寝太郎像を発見 (紛失より98年ぶり)
昭和3年(1928)寝太郎権現堂が再建される
昭和4年(1929)権現堂に寝太郎由来記の扁額が奉納される。寄贈者は境孫四郎(当時は陸軍通信学校長)の自筆であり
孫四郎は漢詩や書道にも秀でており、扁額には雅号「沓岳」の烙印もあった。孫四郎は現在の沓山田
出身で旧姓山本であるが熊本県玉名郡和水町の富豪、境家の養子となっていた。今この境家住宅は
近くの「肥後民家村」に移築され、重要文化財として保存されている。
昭和12年(1937)厚狭町郷土研究会の会報で寝太郎の資料が紹介される
昭和14年(1939)早魃回避の記念碑をたて寝太郎に感謝する。県下で稲作減収
昭和16年(1941)日本放送協会防府放送局の電波で厚狭国民学校の中村卵一訓導が寝太郎伝説を紹介した。
昭和24年(1949)「郷土厚狭」で寝太郎古文書のあらすじが掲載される。
昭和25年(1950)上水道ボーリング工事により沓地区で寝太郎の古堰跡が発見される
昭和25年(1950) 細迫兼光代議士が寝太郎さまの歌を作詞
昭和28年(1953),寝太郎が朝日新聞民話めぐりで紹介される
昭和31年(1956),寝太郎権現奉賛会(河村芳明会長)が発足される
昭和33年(1958),寝太郎祭りが始まる
昭和34年(1959)柳瀬地区の旧寝太郎堰が大洪水で流出する
昭和35年(1960)境孫四郎寄贈の扁額が雨漏れで破損したと故重村房雄氏(文化協会長)との談話で知る
昭和38年(1963)寝太郎人形が発案される (作者/井口方夫)
昭和38年(1963)柳瀬地区の新寝太郎堰が完成する
昭和46年(1971)寝太郎銅像が厚狭駅前に建立される
昭和47年(1972)寝太郎音頭と寝太郎踊りができる
昭和47年(1972)寝太郎権現堂が再再建される
昭和49年(1974)寝太郎堰土地改良事業の工事完成
昭和49年(1974)「山口県の歴史散歩」に寝太郎伝説が掲載されている
昭和54年(1979)寝太郎ゆかりの円応寺が鉄筋コンクリートで再建される
昭和57年(1982)柳井商工会頭が佐渡ヶ島でも寝太郎の話が定着していたと発表
昭和58年(1983)寝太郎祭りに佐渡相川町から親善使節団7名を迎える
昭和58年(1983)柳井商工会頭はじめ14名が佐渡相川町の鉱山祭りに参加
昭和58年(1983)東京の月刊誌[仏教の生活]に[寝太郎はなし]が掲載された
昭和59年(1984)寝太郎荒神の鳥居が修復工事される
昭和59年(1984)佐渡相川町との友好に証としてに寝太郎碑を運び建立する
アフリカ産の黒みかげ石に「寝太郎様を偲ぶ」と金文字入り、高さ1m周囲8m
昭和60年 佐渡親善交流の御一行16名を寝太郎祭りに迎える
平成元年(1989)寝太郎太鼓保存会(会長/山本光男) 発足
平成3年(1991)寝太郎伝説研究会 (田尾進会長) 発足
平成4年(1992)寝太郎紙芝居上演祈願祭(権現堂で奉賛会28名の立ち合い)
平成5年(1993)寝太郎落ち武者伝説出版
平成6年(1994)YAB山口朝日放送で「三年寝太郎は実在した?」でテレビ放映
平成7年(1995)寝太郎伝説ゆかりの地出版
平成8年(1996)寝太郎と大内氏系譜出版
平成9年(1997)寝太郎伝書のナゾ出版
平成13年-15年(2001-2003)まで中国新聞で[厚狭の寝太郎]連載(漫画家/広中健次)
平成14年(2002)厚狭郵便局で寝太郎紙芝居の上演及び1ケ月の展示
平成18年(2006)寝太郎堰(寝太郎用水路)が疎水百選に指定される
平成22年(2010)オリジナルフレーム切手『厚狭の寝太郎伝説』が販売される
平成26年(2014)冷泉隆豊と厚狭寝太郎の点と線出版(大谷平八和幸著)
平成30年(2018)、テレビNHKBS風土記シリーズで[厚狭の寝太郎]が放映される
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寝太郎神社保存会
(Netaro Shrine Preservation Society)
平成6年(1994)9月25日:寝太郎神社保存会を発足しました(山陽小野田市桜2丁目)

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●寝太郎神社保存会・ 顧問/柳井雄三郎(山陽商工会議所会頭) 顧問/田尾進(寝太郎伝説研究会会長)
会長/幡生正隆(惣社八幡宮宮司) 副会長/浅海重之(小中学校元教員)
副会長/壹岐浩一朗(県商工会議所連合会常務理事)
以下、広瀬1.2区自治会長、および寝太郎伝説研究会理事若干名が参列、新聞記者同席、
●平賀清恒顕彰会・
平成10年(1998)9月27日(平賀清恒の命日9/27推測)に木像の入魂の儀が
惣社八幡宮で行われた。
実行委員18名は
幡生正隆、縄田明人、倉重稔昭、原田満恵、重村房雄、中村勤、山本善一、田尾進、竹野宏、山根幸雄、小野又悦子、塩満満志、
岸野雅二郎、壹岐浩一朗、山本光男、濱本澄人、小田典良、山村早苗
●平成6年、 記念碑の序幕式、寝太郎神社保存会の柳井顧問、向って一番左が幡生会長。
同境内、
荒神社 但横壹間壹尺壹寸入壹間四尺壹寸貳歩惣藁萱
祭 月廿七日 一日祭り 但社人神勤神楽を奏し氏子中参詣、
夜中角力杯興行仕候事 寺傅曰、此荒神社厚狭千町ヶ原鬼門ニ當候故、
祈願之権現住吉三賽荒神一所ニ安置ニ句、
権現之儀は千町ヶ原開基寝太郎と申者之由ニ御座候、
古例を 以て千今正五九月為五穀成就祈祷日待月待等仕候事
右當寺初發之開基開山潮海大徳和尚と申、天台宗ニ句殊之
宗風繁昌之由ニ候處、
天和二年壬戌ノ三月廿四日出火二句寺院位牌世牌棟札什書ニ至
迄不歿焼失ニ付還化之年月相知不申、其後星霜押移大内之時代、
冷泉判官隆豊公之領内ニ相成、臨濟宗之和尚 當寺取立之由申傅候
本尊之儀は聖武天皇南都大佛殿御建立ニ付、豊州宇佐、為勅使行基下向之折節、
潮海大徳鑑穂風、右之佛像寄附 相成由申候事

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なお、現在の記念碑は再建されたもので、山本善一(町文化協会会長)の揮毫によるもの
。寝太郎神社の鳥居は明和8年(1771)に奉納されたもので、 明治41年(1911)寝太郎旧堰記念碑が建立。
寝太郎様を偲ぶ碑、佐渡島総合開発総合センターの玄関先に。山陽町・相川町 友好の絆として
昭和59年(1984) 7月25日建之、
石碑は山陽町、台座は相川町が担当,
昭和58年(1983)、相川町から親善視察団で椎野助役、議会の委員長3名、商工観光課長、佐渡金山社長
、商工会事務局長ら7名が来訪
姉妹都市の縁組構想が浮上、
せっかく姉妹都市への期待も高まり、積極的な協議も行われいたのに、
、わずか4年で双方のトップが交代するなど、交流は途絶えてしまいました。
、熱意が薄れてしまったのが残念です。
やる気になれば、双方の発展に
大きなチャンスがあったと思います。
私は部外者でしたが、その後も、個人的には佐渡住民と何度か交流を重ね
途切れ途切れながらも、今はまた新しい人物と関りをもっています。
佐渡市と山陽小野田市という大きな組織で動けば双方ともに大きなメリットがあると
思うのに・・・人口比は佐渡市49,336人、山陽小野田市59,311人、ほぼ互角では
ないでしょうか、
、
、
●寝太郎荒神の森345年記念碑・(寝太郎伝説研究会寄贈)
現在の記念碑は再建されたもの、古くは慶安2年(1649)の長門国大道並灘道路ノ帳に荒神の森として登場している。
元禄4年(1692)長門諸社御根帳でも、千町、荒神社などと紹介されている。
さらに元禄5年
(1692)には寝太郎荒神社として祭りが行われている。
寛延3年(1750)祠の周囲に松の木などを植えたとある。
「禰太郎塚・千町畔ト云フ」 千町畔と云は、先年厚狭の禰太郎と云う者才人にて千町の田面へ水懸りの工夫をいたし一向に千町を取立、
以後禰太郎死て千町の地主と祀り、依之禰太郎塚又は千町 塚共唱へ来ると里民の説なり、・・・(略)・
このように初期の頃は、たびたび禰太郎と呼んでいることから、本来は
禰太郎と言う名があったのではないかとも思う。
●草鞋奉納柱(寝太郎神社保存会寄贈)揮毫/山本善一名誉会員、
●早魃ばつ記念碑(所在不明になっていたものを厚狭図書館の開初館長が
探し当てた旱魃記念石柱)修復2011/8/11

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当会のホームページは全国のみなさまが閲覧され、「3年寝太郎」として
多くの問合せがあり、実際に「寝太郎神社」を参拝されています。
。
遠いところでは寝太郎観光だけの目的で神戸市から女性団体が来られました。
全国には熱心な「3年寝太郎ファン」が多いのに驚いています。
さぞかし期待をして、来県されるのだと思いますが・・・満足されているかどうか。
寝太郎ゆかりの地、記念撮影用の一夜碑を用意しています


同境内、荒神社
但横壹間壹尺壹寸入壹間四尺壹寸貳歩惣藁萱
祭 月廿七日 一日祭り
但社人神勤神楽を奏し氏子中参詣、夜中角力杯興行仕候事
寺傅曰、此荒神社厚狭千町ヶ原鬼門ニ當候故、
祈願之権現住吉三賽荒神一所ニ安置ニ句、
権現之儀は千町ヶ原開基寝太郎と申者之由ニ御座候、
古例を以て千今正五九月為五穀成就祈祷日待月待等仕候事
右當寺初發之開基開山潮海大徳和尚と申、天台宗ニ句殊之
宗風繁昌之由ニ候處、
天和二年壬戌ノ三月廿四日出火二句寺院位牌世牌棟札什書ニ至
迄不歿焼失ニ付還化之年月相知不申、
其後星霜押移大内之時代、冷泉判官隆豊公之領内ニ相成、
臨濟宗之和尚當寺取立之由申傅候
本尊之儀は聖武天皇南都大佛殿御建立ニ付、
豊州宇佐、為勅使行基下向之折節、潮海大徳鑑穂風、
右之佛像寄附相成由申候事
千町ヶ原開基寝太郎
@平賀清恒木彫像材質、クスノキ、 高さ36p、重さ2.5kg、裏面には平賀家の紋章がある。惣社八幡宮宮司、
幡生正隆先生所蔵(寝太郎神社祭主)
Aは昭和59年(1984)佐渡ヶ島に寝太郎碑が建立された時、 重村房雄先生(文化協会会長)が朗読された寝太郎物語の原稿、
このとき寝太郎様を偲ぶ碑は、相川町のあいかわ開発総合センター前に設置された。(だが金山という資料だけで、
有名な相川町と誤解されているが、当時の相川ではまだ金山が発見されていない) 当会の脚本では小木港に流れ
着いたのち、一山超えた西三川金山に向かったとしている。
(平成14年厚狭郵便局資料展)で設置したご意見箱には、たくさんの意見が 寄せられ、
中でも「せっかく山陽町・相川町と友好を結んでいるのに云々...」ともあり、
申し訳ない気はしているが、この
部分は多少、脚色の違いだと理解して頂いた。
なお金山で古いワラジと真新しいワラジを交換したと伝わるが、西三川ではワラジではなく、甘酒と古ワラ
ジを交換したとの言い伝えがあった。 昭和57年(1982)に山陽商工会議所の柳井会頭が佐渡へ旅行したさい、
バスガイドがそう解説していたとのこと。
寝太郎が大庄屋で酒造業の 枝村氏に支援を受けた可能性は大きいが、ワラジの他に甘酒も持参していたのだろうか、
こうしたことが寝太郎が庄屋の息子と
勘違いされた 可能性もある。大庄屋は川のそばに住んでいて洪水に悩まされていたとか、人物の存在が、
枝村孫衛門に繋がっている。 なお昭和12年(1937)
に細迫兼光先生が、研究発表された寝太郎伝説の原稿。 これにも重要なヒントがありました。
きました。
、
寝太郎紙芝居上演(有料上演で15年間、数千人の方にご覧頂きましたが
現在はその普及も終わりました。
防長戦国史と寝太郎伝説
頃は、戦国時代のこと、日本各地で武将の夢と野望が渦巻いていた。中国地方も決してその例外ではない。文人派の大内義隆と
そりが合わなくなった武人派の陶晴賢は、同僚、杉重矩の陰謀にかかって主君、義隆を討ってしまった。
その晴賢も西国進出の野心に燃える毛利元就の謀りごとに乗って出陣したが、厳島での奇襲作戦に敗れて自害する。
勢いついた元就はさらに大内義長をも討ちとり、周防と長門の両国を手中のおさめていく。
この物語は防長三武将というドラマを核に、大内義隆の家臣、平賀清恒が寝太郎のモデルで
あるという説を辿り
厚狭の地に身を伏せて、千町ヶ原を開拓する業績を残しながら、歴史抹殺された経緯を推測するなど
古文書のナゾに迫りながら紙芝居の脚本として鋭く追及している。(防長戦国史調査会所属)
寝太郎落ち武者伝説(平賀清恒物語)
紙芝居「寝太郎落ち武者伝説」の上演祈願祭は平成4年4月3日、円応寺の寝太郎権現堂で行いました。
寝太郎紙芝居上演会 寝太郎紙芝居上演祈願祭
(平成4年3月)大型紙芝居 ベニヤ板600ミリ×900ミリ:セット総重量37s(台座付き)・著作登録 第111480号
脚本/田尾 進、絵画/竹野 宏
ナレーション(15分)小野又悦子/(30分)川崎美奈子
紙芝居は15年にもわたり各公共施設、学校など、依頼を受けた場所で上演し
大きな反響を呼びました。100名を超える上演会もたくさん行ってきました。
数千人の方々にご覧頂き大きな反響を呼びました。
第1幕戦国の情勢、第2幕籠城合戦、第3幕疲労の限界、第4幕武田軍の奇襲、第5幕大内家臣となる、第6幕反逆に遭う、
第7幕義隆の自刃、第8幕落ち武者、第9幕開拓の誓い、第10幕3年3ヶ月、第11幕佐渡へわたる、第12幕砂金取り、
第13幕開拓工事、第14幕寝太郎死去、第15幕歴史の謎、
(下の写真は文化会館での上演、120名)
[スタッフ] 壹岐浩一朗、原田満恵、 [撮影] 田尾やす江
寝太郎紙芝居(全15幕)は平成14年3月1日から、平成15年1月までの10ヶ月にわたり、
解説つきで厚狭郵便局窓口のロビーにおいて展示いたしました。メモ投入箱を設置して
多くの方々から暖かいメッセージを頂きました。
(1幕展示期間約3週間)寝太郎紙芝居祈願祭
テレビでも3回紹介されました。
その他、平成30年5月4日に放映されたテレビNHKBS[風土記シリーズ]の制作では
、元図書館長・開初さんの推薦で。
株式会社ドキュメンタリージャパンより、
寝太郎番組のオブザーバーに依頼され現地取材の立ち合いや、3年寝太郎に関する
古文書の解読などに協力しました。
テレビ放映で風土記シリーズでは、エンドクレジットで、私の名前が字幕で流れました。

ゆかりの地
大型絵馬奉納(梶浦)厳島神社
、
平安時代の延暦23年(804)安芸国宮島より勧請し、
当初は[古開作厳島明神]と称していたが、文禄2年(1593)に
毛利輝元が改築し、厳島神社と改名、、正徳5年(1715)に燃失 その後
神殿が再建される。現在の神殿は明治23年(1890)に再建したもの。
御祭神は 宗像三女神です.
)
絵は竹野宏副会長、この日、宮司さん始め24名が参加して
絵馬の裏に名前を記しました。(ビデオ撮影/長谷川一夫)

寝太郎が大量のワラジを保管したと伝わる縄田家の土蔵、
寝太郎大使©、
寝太郎大使は山陽小野田市出身で県外在住者に限ります。寝太郎の普及だけに限定するなど、いくつかの制約があります。
なお当会が平成10年2月にネーミング登録している「平賀清恒」(第110098号)の名称を自由に使用できる著作隣接権が与えられます。
氏名、住所、電話番号、メール、都道府県名などをお知らせください。審査のうえ添付フアイルで委嘱状を発行します。名刺などで
寝太郎大使を名乗って普及させてください。(各都道府県に1名限定)
2021年02年16日、寝太郎伝説研究会30周年記念とし、
全国の寝太郎大使19名に感謝状を発行しました。
平賀清恒のブログでも広く情報発信していますので参照してください。
寝太郎大使のネーミングは平成10年(1998)に寝太郎伝説研究会がその使命的役割を追求し登録したものです。任期は2年間ですが、何度も更新できます。
名刺に寝太郎大使と記載して普及させてください。普及にあたり当会のホームページを活用できます。
メールも使ってください。寝太郎大使認定証の様式が変わりました。
更新をされる方はメール連絡してください。所定の項目に記載してくだされば、メールで認定証の転送を行います。(各自で印刷してください)
E-mail: tao@rice.ocn.ne.jp

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大内家の本流を継げなかった義世の末裔
大内家31代義隆で途絶えた本家に対し、分家となった29代義世はの系譜は西郡大内家として
今なお45代を継承している。
大内家の祖は百済国の琳聖太子という説があるが、琳聖太子が日本に逃れてきたときに身に着けていたという
鉄兜が存在する。(上記で写真掲載)
。馬にまたがる琳聖太子像もそうである。
百済国云々の真相はさておき、この兜は大内氏直系の証だといえる.27代大内持世は
弟特盛の子教弘を養子にして家督28代を継がせた。そこで持世の実子でありながら、遅く生まれた義世は
家督を継げず東北地方に逃れていった。
その時に賜った鉄カブトという。原文に
義世ハ太郎左衛門尉持世嫡子初持世無子養弟持盛子教弘為嗣後義世出生故嫡男不承家」
それはさておき、大内義隆が養子に迎えた義房(大内晴持)が、大内義世(自称/別系29代)の子、
義生に下した大内直系(別系30代)の証となる文書。
(写真G)義生の子義綱(別系31代)は
「太郎左衛門備前守居干奥田村塩松間後属干塩松式部大輔尚義尚義嘗国政不正是以家臣離叛而掃義綱義綱終追尚義而領其地
、小濱小手森月山岩角新城樵山築館......(略) とあって
その後、 天正11年(1583)に亡くなっている。義綱の子、大内定綱
(別系32代)は天正16年(1588)仙台藩初代藩主の伊達政宗に仕えて天正18年(1590)登米の戦で手柄をたてた
清恒の弟季恒が仕えた時期とほぼ重なる。弟は白石宗近の養子になって白石季恒(のち国長)と名乗った。
なお別系33代の大内重綱は、のちに西郡城主とまでになった。
なお昭和62年の8月に、西郡大内家一族のご一行様(およそ20名)が山口に観光に来られたことがあり。
確か小さな横断幕を掲げておられたと記憶しています。佐藤哲夫さんを始めとする郷土史研究会のメンバーでした。
偶然にも、私が交流していたのは、この方のご親戚の佐藤徳夫さんだということがわかりました。
なお先の著書「寝太郎と大内氏系譜」枝別れした大内義世の分家は44代の勤氏だと示したが、
現在は45代を継承する太内公夫氏がいる。
氏は全羅北道益山市の「名誉広報大使」に委嘱され両国の
橋渡しとして活躍されている。
その他
郷土史研究家、大谷和幸様との交流
上記の 大谷様の著書も、私が監修を務めさせて頂きました。大谷様は大寧寺・寺家老の末裔の方です。
NHK Taiga Drama series Mori Motonari
大河ドラマ「毛利元就」の誘致運動5年間
実は私、大河ドラマ毛利元就の誘致運動に関わった
七人の侍の会のメンバーでした。(会長中村秀昭)
NHK大河ドラマ「毛利元就」の誘致につながった防長三武将サミットの写真、
(平成9年・1997年放映) この写真は第5回サミット(平成6年4月)、フェりーで宮島に
渡る時です。私を含め 100名以上の団体が、陣笠に陣羽織の出で立ちで乗り込みました。
(三武将とは毛利元就、大内義隆、陶晴賢です) 平成3年3月、大河ドラマ誘致の立役者で
ある七人の侍の会(中村秀昭会長、
) に加わり各地を奔走しました。、平成9年の大河ドラマ誘致まで山口県・広島
県各地にわたるサミットに参加しました。
その中には各地の市長さん、教育長さん、議長さん、
大学教授、 歴史家など著名人もたくさんいらっしゃいました。 NHK大河ドラマ毛利元就の誘致は、
七人の侍の会(中村会長・当時、市議としても活躍)が仕掛けた民間の団体です。 実に中村会長は九州2県・中国5県の
16市5町のネットワーク(300名)を構成されました。
平成3年7月の第2回サミットでは、広島県吉田町の郡山城跡で 映画会社から借りた武具を身につけました。
(写真参照) この時、私は若山城主/陶晴賢の家臣に扮して盟約の儀に登場しました。(本来は大内家臣の平賀清恒に扮したかったのですが、
この脚本に平賀清恒の存在がありませんでした。)なお若山城跡の
「1夜城の築城」にも参加して汗を流した一人です。(上記写真)
中村会長の著書に、蘇れ若山城防長の3武将物語、趣味は「ふるさと」なり、 ふるさと発21世紀のメッセージ、
青春夢日記など4冊あります。驚くことに、 そのうちの3冊に私の名前が掲載されています。 とくに恐縮したのは
「七人の侍の会との出会いから」という私の拙い文章が 2頁にわたり(264ページ.265ページ)掲載されていたことです。
私はこの方から大きな影響をうけて、地域に貢献するようになりました。本当に感謝しています。 そして、美しい歩きたくなる
日本の道500選「陶の道/若山城登城のみち」は、中村会長の永年の夢でもあり、青年団長の頃から整備されてきた と言われる。
今なお「陶の道」観光案内のリーダーとして活躍されている姿に心をうたれます。

上記。大河ドラマのシナリオを頂きました
防長三武将サミットを通じて県内外の著名な先生方にも、たくさんお会いして
お手紙などの交流、情報や資料の交換、
これにより歴史研究グループの輪が大きく広がりました。
恐縮したのは千葉大学の井上孝夫教授(社会学博士) からのお手紙でした。 平成16年(2004)
当時は先生の肩書は知りませんでしたが、あとになって寝太郎伝説の深層構造を科学的な検証で
追及され学会でも有名な先生だとわかりました。
もちろん先生は学術的なお考えを貫かれておら
れますし、信憑性の乏しい我々の研究を取り上げられることはありません。 当会への賛同もあり
ませんが、批判されることもありませんでした。それはそれで良いと思います。当会としても
寝太郎に関連したものだけを探し求め、 それを組み立てて、寝太郎に近づけていったという感も
するからです。当然そぐわない資料は排除してきたのですから、 公平と言えるのかどうかは疑問です。
・・・また当時、東亜大学の学長をされていた安部一成先生(経済学博士)山口大名誉教授とも、
中村会長のご紹介により,諸々の祝賀会等での同席含め 15年近く親交がありましたが、平成23年(2011)10月に亡くなられ たと
聞き驚いています。 お悔み申し上げます。 なお県議会議員(議長歴任)の故伊藤博彦先生も「寝太郎
落武者伝説」の紙芝居をご覧になり 以後、お力添えを頂いた方です。私どもが掲載された新聞記事など
も、切り抜いて送って下さるような方でした。
寝太郎に関わる人物像のご紹介・・・・ なお資料転載の部分もあります。
●中川長八(通称・新五郎)なる人物・・・佐渡島で西三川金山を密かに取り仕切っていたが、
のち幕府の管轄となり追放され但馬に移る。
なお不正蓄財の砂金で豪商、但馬屋の主となった人物で、南部但馬鉄三郎と名乗ったらしい。
(注)一般に佐渡相川の砂金山と誤解されているが、当時の相川ではまだ砂金は発見されていない。
本会の示す西三川では今昔物語集にも見られるように建久9年(1198)頃より密かに
開発されていたという記録に基づいている。
●また帝国大学教授で国史学者であった、星野恒博士(天保10年生〜 大正6年没)が武田晴信(信玄)
について述べている書物に
「信濃川と平賀村」の項があり、その中で
平賀郷について示されているが本来、佐久郡の3庄とは、伴野之庄、大井之庄、縄田之庄であった
ことから、
平賀郷とは清恒の祖(義信)が縄田之庄に城を築いて、平賀之事に改称された由来に
基づいている1文とも言える。氏は大日本編年史の編纂にも深く関わっている。
●元新潟大学教授の臼井格博士は実際に寝太郎木彫像を手に取って詳しく観察され、その風格に感銘されたという記述が
平成3年の資料に掲載されていた。だが寝太郎像は地域のお祭りの時以外は、持ち出されることはないので、。
寝太郎権現堂に足を運ばれたのだろうか。氏は佐渡海中公園調査等を通じ寝太郎が辿った小木港にも精通されていたので、
興味をもたれていたことは想像できる。
大内重綱は正保元年(1644)に1,264石で宮城県登米郡、西郡城を拝領し、子孫は明治維新まで居住しました。
矢野主水貞政、内藤隆信(清覚)、枝村孫衛門など.
(祐念寺の開基は内藤清覚で1565年、1621年に清俊に代わる。)
(再掲載)免責事項
当ホームページに掲載された内容については、まだまだ未筆な部分があります
充分注意を払っているつもりですが、その内容の完全性・正確性等に対しては、
不十分な点がたくさんあります。
各地からのお問合せについても十分な対応が
できない場合もありますが、専門家ではないので、
多少はご理解頂ければと思います
なお 当会のホームページの掲載情報には、幾分不備があるため
内容を用いることで
生じたトラブルには責任を負うものではありません。
(著書)寝太郎落武者伝説
(著書)寝太郎と大内氏系譜、
(著書)寝太郎伝書のナゾ
(著書)寝太郎伝説ゆかりの地
(小冊子)寝太郎偽書・悪七兵衛景清
(小冊子)寝太郎と矢野主水・貞政
(小冊子)寝太郎と清覚僧・内藤隆信
(小冊子)寝太郎古文書の究明(田尾進解読)
(小冊子)平賀清恒検定(田尾進出題)
(共著)絵で見る寝太郎伝記 (竹野宏画・田尾進文)
(共著) 寝太郎絵伝 (竹野宏画・田尾進文))
(紙芝居)寝太郎落武者伝説・清恒物語 (田尾進脚本)
(監修)冷泉隆豊と厚狭寝太郎の点と線「大谷和幸著」
(監修)厚狭の寝太郎/平賀清恒 (漫画/広中建次著」
(寄稿)ふるさと発21世紀へのメッセージ「中村秀昭著」
(作詞)寝太郎史伝(作曲・潮中良子)
Netaro Legend Research Societ
寝太郎伝説研究会
会長 田尾 進
最後までご覧頂き、有難うございました。